毎日新聞 - 2011年2月14日
我が家のクータは不衛生なペットショップ出身で、引き取ってから延々と胃腸の具合が安定せず、皮膚病にも悩まされた。子犬時代に長く患ったものだから家では必要以上に大切にされ、健康を取り戻した頃には立派なわがままに育っていた。
彼は家族をよく観察し、最も思い通りになるのは母であると早々に見抜いた。母も「困った」と言いながら実は困っておらず、催促されるままおやつを与え、散歩に出かけ、大いに甘やかした。クータは正真正銘、母の犬だ。
母が旅行に出かけた日は、彼女のベッドで丸くなっている。誰が呼びかけてもふてくされた様子で顔すら上げない。眠ったふりをしながらも、全神経を一心に玄関へと向けていた。大好きな人が帰宅したとき、それは彼にとってこの世で最上の出来事が起きた瞬間だ。1人と1匹の数日ぶりの再会は、毎回がお祭り騒ぎだった。
クータの生活は、昨年末に母が倒れた日から一変した。毎日、長時間の留守番に耐え、母の不在に耐えねばならなかった。母が病室で着ていた寝間着を見せると、ひとしきり熱心に匂いを嗅いだあとベッドに運んで顔をうずめた。その姿は幼い子どもが声を殺して泣いているみたいで、私をひどくせつない気持ちにさせた。
母は意識が戻らないまま、19日目の未明に旅立った。自宅に戻った母にクータを会わせると、なぜか身をよじっていやがった。「絶対に認めない」と言うように。それから丸2日間、次々に届けられる白い花と途切れることなく訪れる弔問客への応対に私は追われ、クータはおざなりにされた。
母が家で過ごす最後の日、真夜中のことだ。気配にふと目覚めると、ろうそくの薄明かりの中にクータがいた。母の枕元で、ただじっと座っていた。納骨を済ませた今も、彼の注意は静かな玄関に注がれ続けている。
ペットロスという言葉がある。愛するペットを亡くした疼(うず)きを私も知っている。でも愛する人を失った動物だって悲しみに打ちひしがれるのだ。最愛の相手がいない世界に直面する彼らへの配慮を置き去りにしてはならない。
寂しくなるけれど、一緒にがんばろう、クータ。愛されただけ幸せになれ。(作家)
タグ:ペットロス