動物 しっぽニュース
認定NPO法人HOKKAIDOしっぽの会

2019年02月17日

「ロンロンは、偉い子だからね」母を支えた飼い犬の話


Yahoo! JAPAN


久しぶりに書く介護の話は、ペットが主題である。

 昨夏、老犬ロンロンを看取った。誕生日が正確には分からないのだが、享年16歳3カ月ぐらいだろうか。人間の年に換算すると85歳ほどらしい。シーズーとテリアの雑種。祖母と父が存命時に我が家にやってきて、父母、母だけ、母と私、さらに母がグループホームに入り私だけ、という家族の変遷の日々を、人生の伴走者として付き従ってくれた。

【関連画像】お気に入りのオモチャをくわえて

 結論を先に書いてしまおう。「認知症の高齢者のいる家庭は、ペットを飼うといい」とはよく言われるところだ。実際、いいことはいっぱいある。一番のメリットは介護される側の精神が安定することだろう。

 しかし同時に難しいこともそれなりにある。飼おうとする場合は、個々の事情を十分に考慮してからのほうがいいだろう。

●1984年からずっとペットがいた我が家

 まずは、我が家の前提条件となる父と母のペット事情を書いておこう。

 父母のどちらが「犬を飼おう」と言い出したかは忘れたが、最初の犬「アーサー」がやってきたのは1984年だった。私は大学生で、祖母も元気、そして兄弟3人全員が実家住まいの6人家族だった。

 アーサーは血統書付きのシェットランド・シープドッグ(シェルティという)の雄だった。さすがは牧羊犬のシェルティだけあって忠誠心旺盛でしかも慎み深い性格をしていた。餌が欲しい時も、決して吠えて要求などしない。すすっと近づいてきて、ちょんと鼻でこちらのひざを突っつくと、またすすっと下がっていて座り、大人しく待っている。

 一家6人がいつも誰かしらアーサーを構っているという状態で、犬も家族もとても幸せになった。

 私と弟が独立した後、1993年に今度は純白のノラ子猫が迷い込んできて、家族となった。物置に迷い込んでにゃーにゃー鳴いているのを母が不憫に思い、鰹節を与えたところ目の色が左右で青と黄色で異なる。一目見て気に入った母は、この子猫を飼うと決めてしまった。彼(そう、この子猫も雄だった)は、ノラ生活に馴染んでいたので、あまり言うことを聞かず、横暴な性格から「ゴンタ」と命名された。

 父は1997年から1999年にかけて、中国の大学で学生を教えていた。父不在中の1997年にアーサーが13歳で天寿を全うした。帰国すると父は「今度は中国の犬がいい」といい、血統書付きのシーズー犬を飼い、「ヤンヤン(陽陽)」と命名した。またしても雄である。ヤンヤンは驚くほど賢く、自分の意志がはっきりしていた。嫌なことは頑としてやろうとしない。散歩も嫌なときは歩こうとせず、近所では「散歩の嫌いなワンちゃん」というあだ名がついた。

 ヤンヤンを飼ってほどなく、父にがんが見つかり、闘病生活が始まった。その最中の2001年、家猫にはならずに好き勝手に表をうろついていたゴンタが――おそらくなにかの病気を拾ってしまったのだろう――8歳で帰天してしまった。

 さあ、これでペットはヤンヤン一匹か、と思った2002年の夏、病の小康を得ていた父が突如として「目が合ってしまってなあ」といって連れ帰ってきたのが、本稿の主人公となるロンロン(龍龍)である。街角に素人ブリーダーが子犬を出して、飼い主を探していたのだという。ペットとしては4匹目になるロンロンもまた、雄であった。

おバカでモテたロンロン
 父の連れてきた時のロンロンは、まったく自分の境遇の変化を理解していないらしき、きょとんとした表情をしていた。ヤンヤンがいるのに、2匹も飼ってどうすると思ったが、どうも父としては「自分が死んだ後も母がさびしくないように」という気持ちがあったらしい。

 もっともその父の心遣いが母にきちんと伝わったのかどうか。手のひらに載るほどの大きさだったロンロンは、さっそく室内のあちこちにウンチをして、母はロンロンに「チビクソ」というあだ名をつけた。

 来てしばらくして、左前足が曲がっていることが判明した。もふもふの毛で分からなかったのだ。が、その時はもう情が移っていて、誰一人として返そうなんてことは言わなかった。

 ロンロンはおよそ父好みではないはずの犬だった。つまりはバカだった。父は常々「バカは嫌いだ」と公言するタイプだった。先輩のヤンヤンは見事に父好みの、思いきり賢い犬であった。

 なのに父は、なぜかロンロンを連れてきてバカと分かった後も可愛がった。

 いや、バカというよりも、犬のアスペルガー症候群だったのかもしれない。散歩で出会う他家の犬との付き合い方がまったくわからないらしく、臭いを嗅ぐとか鼻突き合わせるとかの犬同士の社交ができない。どんなに大きい相手にも吠えてかかってケンカを売る。止めなければ血まみれだ。

 人との付き合い方も分からないらしかった。抱き上げるとカチン、と硬直して動かなくなってしまう。うまく立ち回ってあれこれ要求するヤンヤンとはえらい違いだった。

 でもって、意識してかせずしてか、悪いことをする。家にやってきてほどなく、食卓の椅子の脚は囓り傷だらけになった。かなり後になるが私は、17インチのMacBookをロンロンに壊された。食卓で横に紅茶を置いて仕事をしていたら、足元をうろうろして電源コードをひっかけ、その電源コードが紅茶を倒し、MacBookにばしゃっ……いくら叱ってもキョトンとしているので、怒ろうにも怒れず、全身が脱力する思いだった。

 が、ロンロンはモテた。シーズーの大きな目にもふもふの毛、大きくてふわっとした耳、それにテリアの小さな頭と長い足。歯を剥くとけっこうな乱ぐい歯なので怖く見えるのだが、めったにそんな表情は見せないので、非常に見栄えは良い。

 父母の友人達、散歩で会うよその犬の飼い主、道行くおばちゃんおばあちゃんたちに女子高生――みな一様に「カワイー」と声を上げ、抱き上げたがった。抱き上げると、カチンと固まって身動きしなくなる。すると皆これまた一様に「うわー、おとなしー。いい子ちゃんねー」と歓声を上げてなでくりなでくりする。

 もうひとつロンロンには美質があった。病気がちだったヤンヤンと比べて体が丈夫だったのだ。快食快眠快便で病気なし。基本的に手間いらず、飼うのが楽な犬だった。

 父はよく、犬2匹を洗った。賢いヤンヤンはイヤだイヤだと逃げ回り、お湯を掛けるとやっと観念するのだが、おバカのロンロンは捕まえるとカチンと固まり、そのまんま風呂場へと拉致されて大人しく洗われるのであった。


母と犬の二重介護状態に
 チビクソ呼ばわりから幾星霜、2003年には祖母が、2004年には父、そして2012年にはヤンヤンがこの世を去り、徐々にロンロンにも老いが見えてきた。2014年の春、予防接種で動物病院に連れて行くと「心臓から雑音がするのでこれからは血圧を下げる薬を飲ませましょう」と言われた。白内障で目は濁り、時折壁に衝突するようになった。目やにも止まらなくなり、毎日朝夕、目を拭いて目薬を差すのが日課になった。

 そのタイミングで、母が認知症を発症した。母の介護と犬の介護が重なることになったわけだ。幸いにして、ロンロンは手間のかかる犬ではなかったが、それでも朝、母の出すリハビリパンツと犬のおしっこシートの片付けを同時に行うのは憂鬱な作業だった。以前書いた通りである(「その姿、パンツを山と抱えたシシュポスのごとし」)。

 認知症を発症してからもしばらくの間、母はひとりでロンロンの散歩を続けていたが、母が転倒して前歯をすっ飛ばしてからは、私も付き従うようになった。

 若い時のロンロンは、寄り道をせず、さっそうと歩くタイプだったのだが、今や年老いてぐずぐずとあちこちに寄り道するようになっていた。あっちの電柱、こっちの電柱、あそこの壁、こちらの下水溝、ふんふんと臭いを嗅ぎ回り、しばらく立ち止まり、そしてほんのちょっとだけおしっこをする。だからなかなか散歩が捗らない。

 母はずいぶんとロンロンを可愛がっていて、「この子の一生は私が看取るんだ」と常々言っていた。ロンロンを抱っこしてソファでうとうとするのが、母の楽しみでもあった。そのあたりの行動は、認知症になってからも変わることはなかった。ロンロンがいる、ということが、母の精神を安定させていたことは間違いない。

●どちらも歩かなくなってきて……

 ところが認知症による性格の変化が短気になるという形で現れたのか、散歩ではロンロンに対して腹を立てるようになった。

 「ああもう、このバカ犬」とロンロンを罵り、「もう私歩かない。あんたがロンロンの散歩をやって」と言ったりする。こちらとしては、散歩で母の体力を維持することが目的であり、犬の散歩はついでだ。「あなたの犬なんだから、あなたが歩かせましょうよ」といい、口げんかもしばしばとなった。

 そのうちに、母の体力が衰え、あっちこっち寄り道するロンロンとちょうど釣り合うようになったが、それもつかの間、介護も2年目に入ると今度は母の体力低下が先に進行して、歩きたがらなくなってきた。散歩のコースは同じだったが、どんどん時間がかかるようになっていった。

 それはただでさえ介護で減っている私の仕事とプライベートの時間が、ますます減るということを意味する。しかし、母も犬も、体力の維持のためには散歩が必須なのだ。

 犬も歩かず、母も歩かず。虞や虞や汝を奈何せん――などと調子に乗っている場合ではなくて、とにもかくにも1人と1匹を歩かせねばならぬ。

 犬の引き綱は私が持ち、母と一緒に歩く。すると犬と母とのペースが合わないので、離れてしまう。犬が先に行こうとするのは、自分が押さえればいいが、犬がふんふん嗅ぎ回って動かないうちに、先に母が行ってしまうのを留めるのは難しい。ロンロンを引きずれば彼にストレスが溜まるだろうし、母を留めれば焦れて「歩くのは嫌だ」となってしまう。

 問題は散歩だけではなかった。私が出張となると、母をショートステイに預ける。すると、ロンロンも同時にペットホテルに預けなくてはならない。そのための手間と経費もバカにならない。


2016年の秋が深まる頃には、母は少し歩いては立ち止まり、しばらく休まないといつもの散歩コースを歩き通せなくなっていた。散歩の際には、母の歩きをスマートフォンのカメラで撮影し、記録していたのだが、その記録は2016年12月11日が最後となっている。毎回撮影していたわけではないのだが、おそらくこのあたりが、母がロンロンと共に行った最後の散歩、ということになるのだろう。明けて2017年の1月末、母はグループホームに入居した。

 認知症介護の一環としてペットを飼う難しさは、そのすべてが「ペットと人間の寿命が異なる」というところに帰せられる。

 命を粗末にすることはできない。ペットを飼うということは、その命のすべてに責任を持つということだ。

 ペットが若ければ、認知症の人の死後もきちんと飼って寿命を全うさせてやらねばならない。人が長く生きれば、老いる人と死に行くペットの両方を介護しなくてはならない。

 確かに認知症患者の側にペットがいれば、いいことがいっぱいあるのは間違いない。が、その環境を維持するためには、人間の介護に加えて、ペットの世話をして健康を維持するという不断の努力が必要となるのである。

●避け得ぬ老衰がやってくる

 母が家を去って施設に入り、私とロンロンだけで散歩をするようになった。

 ロンロンはますます注意散漫になり、あっちをふんふん、こっちをふんふん、そしてちょろっとおしっこ、という動作を繰り返すようになった。それでも、母とロンロンを同時に散歩させていた時と比べると、はるかに楽なものである。

 母の生活が落ちついてからは、月に1回の割合でロンロンをグループホームに連れて行った。月の中頃、トリマーさんがやってきて、シャンプーで全身を洗い、伸びた毛を刈る。すると私はすっきりきれいになったロンロンを、母に見せに行く。

 驚いたことに、15歳を過ぎた老犬だというのに、ロンロンはホームに入居するおじいさん、おばあさんたちに大モテとなった。みんな「カワイー」と歓声を上げ、寄ってきて撫でようとする。抱き上げるとカチンと固まっておとなしくなってしまうのは、若い時と同じだ。すると、みんな「うわー、おとなしいのねー。よい子ちゃんねー。偉い偉い」となでぐりなでぐりするのも、往時と変わらない。

 母のいるグループホームは、個人の部屋はペットOKだが、みんながあつまるリビングにはペットを入れてはいけないことになっている。どんなペットが来るか分からないのだから、衛生面を考えれば当然の規則だ。が、ロンロンのところにみんな集まってくるので、徐々になし崩しとなりリビングでもOKとなった。トリミング直後の一番きれいな状態のロンロンを連れてきているので、良いだろうということでもあった。

 面倒な散歩はこっちで引き受け、母を含むグループホームのお年寄りたちにはかわいいところだけを愛でてもらう。これはこれで、理想的な犬の老後なのかも知れない。そう、私は思った。いつまでもこの状態が続けばいい――。

しかし、否応なしに老衰はやってくる。2018年春頃からロンロンの脚はめっきり弱り、よたよたするようになった。5月の半ばには散歩が不可能になり、家でくうくうと寝るばかりとなった。6月頃からは排泄に失敗し、おしっこシートの自分のしたウンチの上にへたり込んでいることが増えた。仕方ないのでウンチまみれのロンロンを抱え上げ、風呂場でお湯を掛けて洗う。カチンと固まるので洗うのは楽だ。「ああ、父もこうやってこいつを洗っていたな」と思いだした。

 あんまりウンチを室内で漏らすので、彼の居場所の床に防水の壁紙を貼り、さらにその上からビニールシートを養生テープで仮止めした。なにかあればビニールシートだけを交換すればいいので、かなり楽になった。

 7月半ば、これが最後になると覚悟して、トリマーさんの手できれいになったロンロンを母のグループホームに連れて行った。この時も、ロンロンは入居のおばあさん達に取り囲まれて「カワイー」という歓声を浴びた。母もロンロンを抱っこしてご満悦だったが、やたらと「この子大丈夫かしら。膝の上でウンチしない?」と尋ねてきた。「こっち来る前にさせてきたから大丈夫」と答えつつ、ああ……母の意識の中にはチビクソのロンロンが生きていたんだ、と感じた。

 手のひらに乗る大きさで、自分がどういう境遇か理解していないきょとんとした目をしていて、部屋のあちこちにウンチをする、子犬の時の印象がずっと残っていたのだ、と。

 7月末、私はエアショー取材で1週間渡米した。ペットホテルに預けるにあたって、もしもの際は、指定のペット葬儀業者でお骨にしてもらうよう打ち合わせもした。さすがにスタッフはプロで「今までもうちで一生を全うするワンちゃんはいました。きちんとやりますので、安心して行ってきて下さい」と言ってくれた。

 帰ってくると、ロンロンはついに歩けなくなっていた。「いよいよだな」と思い、ペットホテルの方に、犬の最後の看取り方を教えて貰う。

 8月4日には一切餌を受け付けなくなった。ただ、氷水だけは飲む。どんどん痩せ、あばらが数えられるようになり、肛門括約筋が緩んで下痢便垂れ流しになった。教科書通りの犬の老衰である。苦しむ様子はなく、ただ「おかしい、なぜ歩けないのか」と訝るように足をかきかき動かし、尻尾をぱたつかせる。力を失った瞳に、恐れは感じられなかった。自分が死ぬということを意識している雰囲気ではない。ああ、おバカだからなあ――と私は思った。

●私は自分の楽しみを優先した

 2018年8月12日、この日は同人誌即売会コミケット94の3日目だった。

 私は、20年来、マンガを趣味で書き続けている大学の後輩のブースで売り子をしてきた。この日も、売り子をする約束になっていた。20年もやっていると人間関係ができてきて、地方から出てくるので年に1回この日にだけ会う友人もいる。逃せば次に会えるのは1年後だ。だが、ロンロンを置いていっていいものか……。

 彼の寿命が尽きようとしていることははっきりわかった。胸に触ると暖かく、心臓の鼓動が手のひらに伝わってきた。しかし、前足はといえば、いつもの体温が失われ、冷たくなってきていた。今日1日持ってくれるかどうか――。

 「元気に長生きして、お父さんお母さんと散歩してくれてありがとうな。本当偉い子だったぞ」と声をかけて体を撫でる。すると、脚をカキカキして、少し尻尾を動かす。


よし、行こう。最悪、自分がいない時に臨終となっても仕方ない。

 「ロンロン、行ってきます」と声を掛け、私は出かけた。

 ああ、私は何をしたのだろう。そのままコミケットを楽しみ、終了後は打ち上げにまで参加して遠来の友達と語らい、帰宅したのは深夜だった。

 「ロンロン……」声をかけても反応はない。彼は冷たくなっていた。

 その朝の気持ちを思い起こすと、6月以来ほぼ毎日続いていた部屋の中でのウンチの始末に、いささかうんざりしていたのは間違いない。「要は人か犬か、だよな」という思考が脳裏をよぎったのははっきり覚えている。「なら、人が優先だ」と考えたことも。

 ほんの少しの思考の過ちだ。言いわけはいくらでもできるだろうが、自分は自分の楽しみを優先した。結果、ロンロンの死に目に会うことはかなわなかった。

 ペットを喪ったことのある人はご承知だろうが、死を確認したその時は、あまり悲しくないものだ。

 そうか……ではやらねばならぬことをしなくては、と私はロンロンの亡骸を風呂場でよく洗い、水分を丁寧に拭き取っていつも寝床に使っていたマットの上に横たえた。翌朝、近所のスーパーに行って段ボール箱を貰い、山ほど花束を詰めて彼のお棺とした。

 冬場はずっと着ていた犬用セーターなど、彼のお気に入りの品も詰めて、ペット専用の葬儀業者に電話すれば、迎えが来て、それでお終いだ。数日後、骨の入った骨壺を受け取ると、一件落着である。人間よりはよほど簡単だ。

 母のところに骨壺を持って行き「ロンロンが天寿を全うしたよ」と話したが、「あらあら」というだけで特段の反応はなかった。ロンロンが死んだと何度言っても、記憶に定着することはないのだろう。

●ペットロスに襲われる

 ロンロンがいなくなって、私は家の片付けを始めた。

 小型犬ではあったがそれなりに存在感があり、縄張りがあり、暗黙のうちに「ここはロンロンの領分だからいじらないようにしておく」という場所があったのだ。

 一通りの掃除を終えて、掃除機に溜まったゴミを捨てようとした時だ。床に彼が残した抜け毛が、掃除機に溜まっていたのだろう。ふわっと、ロンロンの臭いが私の鼻孔に届いた。

 その瞬間、涙が溢れた。喪失感で頭がいっぱいになり、私は泣いた。最後まで君の横にいるべきだったよ――かわいそうなことしちゃったね、ごめんなさい。涙はなかなか止まらなかった。

 ペットロスという言葉があるが、それは心的外傷後ストレス障害(PTSD)に近いか、あるいはPTSDそのものであるようだ。その後、しばらく、私は突如としてロンロンの事を思いだしては涙を流した。玄関で靴を履く、ゴミ回収の日にゴミを出す、部屋の掃除をするためにいつも彼が丸くなっていたソファを動かす――ちょっとした動作でロンロンを思いだして泣いてしまうのだ。


アーサーの時も、ゴンタの時も、ヤンヤンの時も、こんなことはなかった。それぞれ「両親のペット」だったり「母のペット」という感覚だった。

 ロンロンは違った。母と共に歩き、母がグループホームに入居した後はともに散歩し、時間と行動を共有するうちにロンロンは「私のロンロン」になっていた。ロンロンは、ただ「居た」だけだった。手間ばかりかけさせる存在だった。しかし、そこにいるという、それだけで、かけがえのない家族だった。

 犬という普通名詞で括ってしまえば、犬はいくらでもいる。しかし、その犬にロンロンという名前を与え、共に同じ家で過ごした記憶を重ねれば唯一無二の友となる。宇宙が始まってからこれまで、そして未来永劫、ロンロンはこの一匹だけなのだ。

 さらばロンロン。

 ありがとう、君がいて良かったよ。君であって良かったよ。ずいぶんバカバカいってごめんよ、偉い子だったよ。

 ロンロンの最後を看取ることをしなかったという失敗は、自分の裡に教訓として残すことにした。母の時に同じ間違いを犯すことはできない。

●「ロンロンは、偉い子だから」

 さて、その後の話。

 2018年のクリスマス、衰弱が進む母に、妹がプレゼントをした。ロンロンそっくりのぬいぐるみだ。ペットの写真を送るとそっくりのぬいぐるみを作ってくれるというサービスをネットで見付け、「さびしくないように」とドイツから注文して母のところに送ってきたのだった。

 効果は絶大だった。もう「ロンロン」という名前すら、スムーズには出てこないが、元気だった頃に自宅のソファでロンロンをだっこしたように、母はぬいぐるみをつっつき、抱きかかえ、そして飽きることなく撫でた。母の精神の安定に役立っているのは明らかだった。

 母は、ぬいぐるみということが認識できなくなっている。ロンロンのぬいぐるみを抱きかかえ「ねえ、この子おしっことかしないかしら」と何度となく聞いてくる。

 認知症の人と話すときには、むやみと否定をしてはいけない。主張や疑問を柔らかく受け止めて不安感を解消する必要がある。

 だから、私はそのたびに返事するのである。「大丈夫だよ。ロンロンは偉い子だから」。

*****

 母親を単身介護している松浦さん。最初の「見逃し」から始まったトラブル、いくつもの反省、後悔、そしてそこから生まれた教訓を赤裸々に語った連載がこの「介護生活敗戦記」です。連載をまとめた単行本が『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として出版されました。

 愛情と不安とストレスに悩む息子の気持ちを、冷徹な科学ジャーナリストとしての文体で綴った異色の「読んで泣けて役に立つ」ノンフィクション。アマゾンで五つ星レビューをたくさんいただいています。悩む方も、悩んだ方も、これからの方も、ぜひこの連載のバックナンバーでご確認のうえ、お役に立ちそうならばご購入ください。

松浦 晋也
posted by しっぽ@にゅうす at 10:08 | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

保護犬を多頭飼いする時に注意したい3つのこと

ネタりか



@先住犬が家に慣れている
玄関マットに伏せるジャックラッセル

保護犬を多頭飼いするときに大切なのは、先住犬が家にしっかりと慣れていて、精神的に落ち着いているかどうかということです。
保護犬の場合、何のトラブルもない子犬の頃から飼っているのとは違い、環境に慣れるのに時間がかかることが多くあります。
そのため、先住犬が落ち着いていない状態で他に犬を受け入れてしまうと、先住犬はもちろん後から来た犬に、とっても大きな負担がかかってしまうでしょう。
犬を受け入れるときには家庭内が落ち着いていて、先住犬を含め家族の気持ちに余裕があるということがとても大切です。

Aそれぞれの犬が苦手なことを把握する
ソファに隠れるマルチーズ

保護犬の場合、多くの場合は何らかのトラウマを抱えていることがあります。
虐待によって人を怖がったり、大きな音や長い棒を怖がったりする犬もいます。
虐待を受けていなくても、飼育放棄されたことで一人にされることや、置いていかれることを極端に嫌がったり、経験が少ないことなどから、家の中の場所や他の犬などにおびえてしまったりする犬もいます。

保護犬と言っても、一括りにどういった犬かということは言えず、それぞれ抱えているトラウマは違います。
保護犬を飼育する場合は、それぞれの苦手なものやトラウマとなっているものを把握してしっかりと対応してあげることが大切です。
それは多頭飼いであっても同様で、たとえたくさんの犬がいたとしても、1頭ずつにきちんと苦手なものを見極めて対応しなければなりません。
ただし、犬同士だからこそ寄り添って支え合えるという部分もあるので、苦手なものに直面している犬がいるときは、他の犬の様子なども見ながら接し方を考えるといいでしょう。

Bむやみに何頭も飼わないようにする
たくさんの犬を連れている女性

保護犬を引き取るのは簡単なことではありませんし、とても素晴らしいことだと思います。
しかしながら、「犬を助けたい」という気持ちが行き過ぎて後先を考えず、多くの保護犬を引き取ったり、保護してしまったりすることには気をつけてください。
確かに命の危機にある犬を目の前にして、放っておくことができないという気持ちはわかりますが、時としてそれが「多頭飼育崩壊」を引き起こすことも少なくないのです。

善意で始めた犬の保護活動や犬の飼育が、次第に数が増えて飼い切れなくなってしまい、結果的に逆に保護される形になってしまうというのでは本末転倒。犬も飼い主も幸せにはなれません。
「犬を助けたい」という気持ちは大切にしながらも、保護犬を引き取るときには本当に自分で面倒を見切れるかということを考えて、飼育頭数を決めるようにしましょう。

保護犬の多頭飼いに関するまとめ
うれしそうに走る3頭の犬

保護犬の多頭飼育はそれぞれの犬が抱える事情がある分、少し難しいところもあるかもしれません。
しかし、1頭1頭にしっかりと向き合い関係性を築いていけば多頭飼育も問題なくできますし、犬にとってもより楽しい生活を与えてあげることができると思います。

保護犬だからこそ気をつけなければならないところもありますが、犬を飼う上ではどんな場合でもその犬の気質や性格をきちんと見極めて寄り添い、時間をかけて向き合うことが大切であるということに変わりありません。
また、保護犬に限らず多頭飼いで大切なのは犬同士の相性です。
多頭飼いをするときには、先住犬の意思を尊重するように心がけて、相性を見極めるようにするといいでしょう。

posted by しっぽ@にゅうす at 10:03 | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ペットを飼うこと」の意外なメリット:認知症対策、子どもの健全な育成、病人・囚人にも…その有効性とは

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動物は私たちをより健康的で、幸せな人間にしてくれる。ペットを飼っている人なら、動物が与えてくれる大きな喜びや安らぎをよくご存知だろう。悩みがある時などは特に。ペットの多くは、大切な「家族の一員」とみなされている。

「動物の世話」というととかく人間に主体があるようだが、人と動物の結びつきというのは双方にとって建設的かつダイナミックな関係性が築かれる。そのために取る感情的・精神的・身体的な交わりは、動物と人間どちらもの健康と幸福に大きな意味を持つ。


c Pixabay

活動家として性的虐待の犠牲者や社会の片隅に追いやられた人たちの活動に関わっているホープ・フェルダウジアン医師(参考)は、エッセイ『なぜ今、動物の権利を求める社会運動が起きているのか – Why Justice for Animals Is the Social Movement of Our Time』の中で、「人間と非人間の権利共生」について鋭い洞察を示している。

特に印象的なのが、「動物は私たち人間と同じで、とても脆弱な生き物である。事実、人間の弱さの主たる部分は “私たちも動物である”という事実に集約される」という一節。これは非常に本質的なことを突いている。人間も動物も基本的な特徴は同じ、「生存する」という最も重要な部分において「似たもの同士」であるという事実を言っているのだから。


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彼女のエッセイは「人間 - 動物 - 環境」の関係性を活かすには、各分野間(人間、動物、環境)の連携が必須であることを確証している。と同時に、私たちの社会が、この関係性がもたらすメリットをおろそかにしていることを思い出させる。あらゆる場や手段にその関係性が活かされることを、そもそも期待すらしていないのではないだろうか。

次々に実証される「動物との絆」の医学的有効性
「人と動物の絆の大切さ」を示す研究が増えている。研究対象は、子どもの成長期、高齢者の介護、病を患っている人へのセラピー、精神疾患・身体への傷害・認知症・虐待やトラウマがある人々への支援、囚人の更生プログラムなどさまざまだ。


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予防医学の観点からも、動物と日々建設的な関係を育むことは、心臓血管系に効果がある。「人と動物の絆研究所(Human Animal Bond Research Institute)」(参考)が保管するさまざまな研究には、ペットが人々の健康にもたらす一連の効能が示されている。例えば、犬や猫などをペットとして飼うことで、人はよりアクティブになり、血圧が下がり、血管も強くなり、心臓病に罹るリスクが減る、等。ミネソタ大学が実施した調査では、猫を飼ったことのない人は心臓発作で亡くなるリスクが(猫を飼っている人より)40%高いとされている。

動物を世話し、建設的な交わりを持つことは、心の健康にもメリットがある。孤独感や無気力、自分なんて…と感じるいわゆる鬱症状が和らぎ、ストレスや不安を処理する上でも助けになるのだ。飼い主は「盟友」がそばにいると、たちまち穏やかな気持ちになれる。

特に顕著なのは子どもの成長へのメリット
特に興味深いのが、動物と子どもたちとのあいだに信頼ベースの関係性が築かれることのプラスの影響だ。動物と子どもが「同士」となることで、子どもたちの健全な成長が促され、社会的・感情的・教育的にもいろんなメリットがある。子どもたちは動物と触れ合うなかで大きな自信を得て、孤独を感じにくくなり、ソーシャルスキルも伸ばしていけるのだ。


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さらに強調しておきたいのは、動物と前向きなつながりを持つことで、自閉症や心的外傷後ストレス障害など特別なニーズがある子どもたちとの社会的交わりをも改善してくれること。リバプール大学の研究者が国際学術誌『International Journal of Environmental Research and Public Health』に発表した研究でも、特に6才以下の子どもと思春期前期の若者が動物との絆から大きな恩恵を享受していることを裏付けている。ペットと楽しく過ごすことで気分が良くなり、ホッとでき、自分という存在を肯定的に受け止められるようになるのだ。


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動物を飼うことで責任感、共感、他者の面倒を見る心意気など、大切な「人生の教訓」を学べることはよく知られている。動物が子どもの健全な成長にもたらすインパクトを分析した最新の科学調査によると、その傾向は幼少期に動物と関わりがあった場合に特に顕著だった。家に動物がいることで、子どもたちは免疫システムに関する病気(アレルギー、喘息、湿疹など)からも守られる。

このように、動物との建設的な絆が、私たちの幸福度を高めてくれることは明らか。しかも、人間と動物の両者にメリットをもたらす、実に特殊な絆である。

公衆衛生にも動物を巻き込んだ取り組みを
すでに分かっていることからも、今後必要となってくるのは「社会の認識を高めること」。

ペットの飼い主のみならず、ペットを飼っていない人、獣医、医者、ソーシャルワーカー、心理学者、教師、教育者、関連施設で働くスタッフ、その他の利害関係者を教育する、公共政策を大幅に見直して公共の場にペットを同伴できるようにする、公衆衛生に欠かせないものとして動物を巻き込んでいくことなどが必要となってくる。

今後期待したいこととしては、患者がペットと触れ合える機会が増える、「動物との絆」がセラピーや支援として妥当かつ効果的とされ公式に取り入れる医療関係者が増える、当分野の研究が重要かつ現場でも応用できるような発見をもたらしてくれることを期待したい。

この豊かで活気あふれる複雑な世界。動物が人間と同じく素晴らしい生き物であること、その能力でわれわれを驚かせてくれるユニークな存在であること、私たちの身体的・精神的・社会的・感情的な健康を育むうえで強力な味方になってくれること、これらは疑う余地がない。動物は、私たちをより強く健康的な人間にし、その発達に貢献する力を持ち合わせている。


c Pixabay

とはいえ疑問点は残る。人間と動物の良好な関係性を深めるため、日常的に何をすればよいのか? 人間と動物が「共存」することのプラス面をしっかり認識し、活用していく準備はできているのか? 悠長に待っていてはいけません!自身の事情なり状況をよく考え、(状況が許すならば)自分でもペットを飼い、責任持って面倒を見て、愛情を注ぎましょう。期待よりはるかに多くの見返りがあるでしょうから。

By Iva Apostolska
*マケドニアの動物保護協会「Anima Mundi」および環境組合「Ajde Makedonija」のメンバー。
Courtesy of Lice v Lice / INSP.ngo
posted by しっぽ@にゅうす at 10:02 | ペット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猫のしつけに「鞭」は不必要 悪いことをしたら「無視」で

NEWSポストセブン


犬と違って、“猫にしつけは無理”などといわれることも多いが、実は大間違いだという。猫にもちゃんとしつけはできるのだ。ただし、一筋縄ではいかないことは確かで、ちょっとしたコツがいるという。そこで、猫のしつけ方を、専門家に教えてもらった。

 一般社団法人ペットフード協会が行った「平成30年全国犬猫飼育実態調査」によると、飼育場所が室内のみの猫は全体の78.3%。2年前から毎年約4%ずつ増加しており、過去最高を記録した。

 このデータからも、ひとつ屋根の下、猫と共同生活をする人が増えていることがわかるが、室内で一緒に暮らす以上、猫にやっていいことと悪いことを教える“しつけ”は必要だ。

「しつけとは、トイレで排泄するなど、動物に“飼い主にとって望ましい行動”を学習させること。しつけは猫にも可能ですが、犬より猫の方が難しいのは確かです」

 と、獣医行動診療科認定医の藤井仁美さんは言う。

「犬は群れで行動するため、社会的な関係の中で生きる状況に適応しやすく、飼い主の指示にも耳を傾けます。しかし、猫は単独行動で生きる動物なので、自分以外の相手に従うという意識が犬ほど強くありません。また、警戒心が非常に強く、人間に対しても、信頼感より警戒心の方を持ちやすいんです」(藤井さん・以下同)

◆悪いことをしたら無視を! 家族でしつけの方針を統一しよう

 猫をしつけるには、まず警戒心を解く必要があるという。そのためのポイントは次の2つだ。

【1】猫が安心安全で快適に生活できる環境を用意する
【2】飼い主は敵ではないと確信させるような接し方をする

「身の安全を確保してあげることで猫は、“飼い主は自分にとって多大なメリットをもたらす存在”と思うようになります。そうやって猫と少しずつ信頼関係を築いていきましょう」

 【1】と【2】の条件を満たしたうえで、いいことと悪いことを学習させていく。

「しつけには、基本的に猫が喜ぶおやつなどを用います。おやつではなくても、猫にとってメリットとなるものでもけっこうです。正しい行動ができたら、おやつなどをあげます。ごほうびを与えることで、“飼い主が望ましいと思う行動を、喜んで行いたい”と思えるように学習させます」

 手を咬むなどの悪いことをしたら、無視することも大切。叩く、水をかけるなど、猫が嫌悪感や恐怖心を抱くような罰は、ゆめゆめ与えてはいけない。猫のしつけに“鞭”は必要ないのだ。

「叩くなどすれば、猫は飼い主に対して警戒心を抱き、その後、再び信頼関係を築くことは非常に困難になります。また、家族でしつけの方針がバラバラだと猫も混乱するので、家族間で考えを統一させましょう」

 最も大事なのは、飼い主が猫について理解すること。かわいいからと必要以上にベタベタして、逆に嫌われては本末転倒だ。

 猫と人間が仲よく暮らすためにはしつけは必須。お互いのために、根気よく向き合っていこう。

※女性セブン2019年2月28日号
posted by しっぽ@にゅうす at 10:00 | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鉛弾?受けた猫死ぬ 虐待相次ぐ稲毛海浜公園 殴打や顔に接着剤

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千葉市稲毛区の稲毛海浜公園で、鉛弾が撃ち込まれたとみられる猫が見つかったことが16日までに、猫を保護するボランティアや同公園管理事務所への取材で分かった。鉛弾を受けた猫は15日夜に死んだ。同公園にはボランティアらが世話する「地域猫」が約60匹おり、2016年以降、殴打されたり接着剤をかけられたりする虐待被害が少なくとも9件確認されている。通報を受けた千葉西署は、動物愛護法違反の疑いで調べている。

 ボランティアによると、同公園で先月8日、血だらけの猫を見つけて保護し、市内の動物病院に運んだ。自宅に連れ帰った女性が猫の背中に異物が埋まっているのに気付いて、動物病院を再訪問。背中と脇の計2カ所から鉛弾のようなもの(長さ10ミリ、太さ5ミリ)が見つかり、同21日に摘出手術を行った。術後に回復せず、今月15日に死んだ。

 死んだ猫は推定10歳の雌で「ヒトミ」と名付けた地域猫。自宅で一時保護した女性は「空気銃などで撃たれたと考えられる。罪のない猫を虐待するのは許せない」と怒りの声を上げた。

 同事務所によると今月8日には、血を流した別の猫の体内から鉛の塊が2個見つかった。16年以降、猫の顔などに接着剤がかけられたり、殴打されて死んだりする被害が計9件確認されているという。

 虐待被害がなくならず、同事務所は園内8カ所に動物虐待防止を呼び掛ける看板を設置。ただ、「効果は得られてない」という。動物愛護法違反の疑いで調べている同署は、パトロールを強化するなどしている。
posted by しっぽ@にゅうす at 09:58 | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする