動物 しっぽニュース
認定NPO法人HOKKAIDOしっぽの会

2019年08月03日

動物にたいする倫理的配慮と動物理解 - 久保田さゆり / 倫理学

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私たちの社会には、人間の他にも、多くの動物が含まれている。たとえば、犬や猫などのコンパニオン・アニマル(伴侶動物)は、その多くが人間の生活圏の中で生き、人間と密接な関係を築いている。

また、全国にある動物園や水族館(日本動物園水族館協会加盟施設だけでも、2017年7月現在で151施設)では、さまざまな種類の野生動物が飼育・展示されており、私たちはそうした動物を国内の整備された環境のなかで見ることができる。

実験動物や、豚や牛や鶏といった畜産動物もまた、人間社会のなかで生きる動物である。私たちの多くは、かれらが生きている姿を直接に見る機会は少ないかもしれないが、身の回りの製品や、日々の食事などを通して間接的にそうした動物と関わっている。

こうした動物たちのことを、私たちはどのような存在として理解しているだろうか。このことを少し真面目に考えてみることが――動物との向き合い方をめぐる学術的な議論においても、また、私たちがかれらと出会う日常的な場面においても――結局のところ最も大切なのではないか、ということを本稿では述べていこうと思う。

それを通して、「動物倫理」の基本的な考え方が、学問上の単なる抽象的な学説であるわけでも、欧米の新奇な考え方の単なる輸入であるわけでもなく、身近な――意識してみれば、自分のなかにすでにあるような――考えだということを述べたい。

動物をめぐる状況
動物をめぐる状況は、人間によるかれらにたいするこれまでの扱いを反省し、改善していこうという方向に進んでいる。これは海外だけで生じている流れというわけではない。日本では、たとえば犬や猫をめぐる状況が小さくない変化を見せている。とくに大きな関心を引いているのは、殺処分の問題だろう。

環境省がまとめている2004年度の数字では、41万頭以上の犬や猫が自治体に引き取られ、その9割以上にあたる39万頭以上が殺処分されていた。しかし、このように犬や猫が大量に殺処分されている現状にたいして、動物愛護団体だけでなく、殺処分を実際に行わざるを得ない自治体職員や、動物に関心をもつ個々人が疑問の声を上げてきている。

そうした声を受けるかたちで法律の改正も進んでおり、「動物の愛護及び管理に関する法律」の2012年改正(次回改正予定は2018年)では、自治体が、犬猫の引取りをその所有者から求められたときに、相当の事由がない場合には「引取りを拒否することができる」と定められた。また、「殺処分がなくなることを目指して」、自治体が、引き取った犬猫の返還や譲渡に努めるよう明記されてもいる。

加えて、「人気のある品種」の犬や猫をペットショップで購入するのではなく、愛護センターや譲渡会を通して犬や猫を迎えるように呼びかける活動〔たとえば、フリーペーパー「ペットショップにいくまえに」など(http://bikke.jp/pet-ikumae/ 参照2018年7月20日)〕や、野良猫の数を、殺処分によってではなく、繁殖を防ぐことで時間をかけて減らしていこうという「地域猫」の取り組みも盛んになっている。

地域猫活動とは、いわゆる「無責任な餌やり」ではなく、その地域に住む野良猫を一時保護し(T:Trap)、不妊去勢手術を施し(N:Neuter)、元の地域に戻す(R:Return)というTNRを主軸に、地域住民が、餌やりと糞尿等の清掃を含めた適切な世話を行うというものである。この活動は、これ以上猫が繁殖してしまうことを防ぎながら、今いる猫たちがその生をまっとうできるよう助け、また清掃による地域の生活環境保全によって住民間のトラブルを防ぐことを目的としている。

こうした取り組みのおかげもあり、2016年度には、犬猫の引取り数は113,799頭、殺処分はそのおよそ半数にあたる55,998頭と、いまだ多くの犬や猫が命を落としてはいるものの、以前と比べて大幅に殺処分数・殺処分率が減少してきている。

さらに、実験動物や動物園の動物や畜産動物の状態にたいしても目が向けられるようになっている。たとえば畜産動物に関しては、1964年に出版されたルース・ハリソンの『アニマル・マシーン――近代畜産にみる悲劇の主役たち』や、1975年に第1版が出版されたピーター・シンガーの『動物の解放』といった著作において、現代的集約型畜産の実態が広く知られたのを契機に、飼育環境の改善が求められるようになってきた。

現代の集約型畜産は、過密飼育によって、消費者の需要に合わせた均質な生産物を、効率的に大量生産することを目指す飼育方式である。そうした飼育方式のもと、畜産動物たちは、人工的に、急激に体重を増加させられることに起因する疾病や負傷などに苦しみ、狭い空間に詰め込まれて満足に体を動かす自由すらないまま一生を終える〔具体的な状況についてここで詳しく触れることはしないが、とくに日本の状況については、佐藤衆介2018「生きているウシ・ブタ・ニワトリについて思いを馳せてみませんか」打越綾子編『人と動物の関係を考える――仕切られた動物観を超えて』第2章を参照〕。とくに欧州において、こうした飼育状況が知られることで批判が高まり、産卵鶏のバタリーケージ飼育や妊娠豚のストール飼育の禁止などが法律で定められている。

こうした動きの背景には、さまざまな要因があるだろう。本稿で注目したいのは、こうした動きの背景にあると考えられる――あるいは、こうした動きと調和する――動物にたいする理解である。それは、人間が好きに利用してよい単なる「道具」や「手段」や「物」といった理解ではない。そのような理解では、動物が苦しんでいても、そもそも動物のそうした状態にたいして気を配るべきかどうかという問いすら生じなかったかもしれない。

そうではなく、動物の状況に私たちが問題を見いだす際、その背景には、動物を、かれら自身の生をもつ「個々の動物」として見る理解がある。そうした理解においては、動物がたんに「命」であるという抽象的な理解にとどまらず、それぞれ個々の動物が、自身の生を生き、苦しんだり喜んだり、何かを怖がったり期待したりしているという、その具体的な状態に目が向けられている。

倫理学は動物の問題をどう論じるか
倫理学の関心は、伝統的には、主に人間にあったといえる。つまり、倫理学は、人間を対象とする行為の倫理的是非について検討してきた。それにたいして、動物倫理の議論は、人間以外の動物も倫理的配慮の対象であり、動物にたいする人間の行為や制度に関しても、その倫理的是非が問われうるのではないかという疑問を提示している。

人間だけを倫理の範囲に含めることに疑問を投げかけてきた主な倫理学の立場が功利主義であり、現代におけるその代表的な論者が、ピーター・シンガーである〔戸田清訳2011『動物の解放 改訂版』〕。功利主義においては、大まかに言えば、倫理的によい行為とは、世界のなかで生じる幸福の総量を最大化する行為である。功利主義に基づけば、自分の行為によって影響を受けるすべての存在にもたらされる幸不幸――福利(welfareやwell-being)とも呼ばれる――を考慮に入れて、その差し引きを計算し、もたらされる幸福が最も大きくなるような行為を私たちは選択するべきである。

幸不幸にはさまざまなものがありうるが、最も基本的なのは、快楽と苦痛である。私たちにとって、基本的には、快楽は手に入れたい、よいものであるし、苦痛は避けたい、悪いものである。このとき、快楽がよいもので苦痛が悪いものであるのは、なにも人間に限ったことではない。人間以外の多くの動物もまた、快や苦を感じる能力をもっており、それらを得ようとしたり避けようとしたりする。そうであるなら、動物の感じる苦痛についても倫理的な考慮に入れる必要があるはずである。

シンガーは、この考えを「利害にたいする平等な配慮」の原理と呼び、動物がもつ(苦しめられたり痛めつけられたりしないという)利害を、それが動物のものだからという理由で考慮に入れないのは、ちょうど、性別や人種を理由に誰かを不利な仕方で扱う性差別や人種差別と同じ形の、「種差別」だと主張する。

苦痛は、それを感じる能力があるどの存在にとっても悪いものであり、誰かに苦しみをもたらすことは、基本的には、倫理的に非難されるような行いである。シンガーの主張は、苦痛が倫理的に重要であるならば、動物が被ることになる苦痛をも私たちは考慮に入れるべきであり、もし、人間が自分たちの些末な利益のために、動物に多大な苦痛をもたらしているのなら、そうした行為をやめるべきだというものである。

功利主義に基づくシンガーの議論では、人間が得る利益が動物の被る苦痛を上回る場合には、動物に苦痛を与えることは許容されることになる。これとは別の主要な議論として、義務論という倫理学上の立場から動物の扱いについて論じるものがある。その代表的論者であるトム・レーガンは、人間だけでなく他の動物のなかにも、「固有の価値」をもつものがおり、そうした存在はその価値を尊重したかたちで扱われる権利があると主張する〔青木玲訳1995「動物の権利の擁護論」『環境思想の系譜3――環境思想の多様な展開』〕。

少なくとも一部の動物は、ただたんに生きているだけではなく、何かを欲求したり、その欲求のために何か行動を始めたりする能力をもっている。また、過去の記憶や未来の感覚をもち、快苦の感覚を含む情緒的生活を送っている。そうした存在には、他者の利害や欲求とは独立の――つまり、他者の好きなように扱われたりしない――その存在自身にとってよいことや悪いこと(福利)がある。この点で、ある種の動物は、人間を倫理的に重要な存在たらしめているものの一部を人間と共有している。

レーガンの主張は、たとえ他の誰かの利益になることでも、そうした存在の価値を損なうような扱いをすべきではないというものである。そのため、この立場によれば、動物を殺して食べたり毛皮にしたりすることや、野生動物を狭い檻に閉じ込めて観賞することなどは、たとえそれによって利益を受ける人が多くいたとしても、動物の権利を侵害することであり、倫理的に許容されないことになる。

また、徳倫理という倫理学の立場が近年注目を集めているが、この立場は、動物がもつ能力だけに注目するのではなく、そうした能力をもつ存在に向かい合うときの、人間の徳性に注目する。徳倫理にはさまざまな立場があるが、現代の代表的な論者であるロザリンド・ハーストハウスは、どのように行為すべきか決める際には、その行為に伴う動機や感情の適切さも含め、有徳な人ならばどのように行為するか、その行為はどのような言葉で表されうるかを考えるべきだと主張する。

動物との関連で言うと、たとえば、必要性がないにもかかわらず、動物にたいしていたずらに苦痛を与えたとしたら、それは残酷で、正当化できない行為だとみなされる。反対に、道端で苦しむ動物を見つけたときに、その苦しみに心を痛めてその動物を助けることは、多くの場合、思いやり深いとみなされる。ハーストハウスの議論は、行為にたいする強い禁止を導くようなものでは(おそらく)ないが、私たちが倫理的な判断を行う際に重視している事柄を捉えるものになっている。

このように、倫理学にはさまざまな立場があり、小さくない対立もあるが、どの立場も、「ある状況である倫理的判断を下したならば、それと道徳的に重要な点で違いのない状況においては、同じように判断を下すべきだ」という、判断の一貫性を重んじる点では一致している。そのため、もし私たちが、痛みや苦しみを感じるということを道徳的に重要な特徴だと考えるなら、痛みや苦しみを感じる存在すべてにたいして、少なくとも一定の倫理的な重みを認めるべきだ、ということになる。

もうひとつ、本稿でより強調したいのは、ここで概観したどの倫理学説においても共通して重視されている次の2つの事柄である。それは、第一に、動物を「個々の存在」として見る視点である。どの立場においても、目が向けられているのは、私たちの行為によって、個々の動物に何がもたらされるかということなのであって、かれら動物は、たとえば種全体として捉えられているのではない。配慮の対象は、具体的な個々の存在である。その点で、動物倫理の議論は、自然環境や生態系といった対象の保全を目的とする「環境倫理」とは、本質的に関心を異にしていると言える。

第二に、感覚を備える動物が苦しみうるということ、そしてそうした苦しみは私たちの倫理的判断に影響を与えるはずだという考えは、どの立場にも共通のものである。そしてこのこと自体は、功利主義や義務論といった特定の倫理理論に必ずしも依拠するわけではなく、日常的な、私たちの経験に根差した考え方である。

動物倫理の考え方は、本来、一部の活動家が信じる有無を言わせない理想のようなものではないし、動物に人間と同等の権利を確立すべきだというような主張である必要もない。そうではなく、その基本は、自分の行為が他者に危害をもたらしうるなら、それを避けようと真剣に考え、動物の苦しみや、苦しみがもつ倫理的な重みについて、真剣に考えるということである。私たちはそれを出発点に、個別の具体的な状況のなかで、動物にたいしてどのように向き合うべきかを考えることができる。【次ページにつづく】


日常的な動物理解の間の齟齬
動物倫理の議論で重視されるのは、まず、動物を個々の存在として捉える視点である。そして、誰かに正当な理由なく苦痛を与えるのは倫理的に問題があるという考えであり、動物のなかには、苦しんだり喜んだり、何かを怖がったり期待したりといった、豊かな内面的状態をもちうるものもいるという理解である。そうした基本的な考え方は、初めに述べたような、動物をめぐる社会的変化を支えるものにもなっているだろう。

しかし他方で、現実には、そうした動物理解とは相容れないような扱いを受けている動物がいるのも事実である。たとえば、豚や牛や鶏などの畜産動物は、「アニマルウェルフェア」ないし「動物福祉」という考えのもとで、たしかに、「生きている間」の福利の向上が目指されはじめているが、結局は、人間に殺されて食べられている。これは、殺処分を避けるためにさまざまな取り組みが行われている犬や猫とは、大きく異なる扱いである。また、とくに日本や欧米などでは、犬や猫を食べるという考えにたいして強い抵抗感が示されるのが普通である。

こうした扱いの違いを考えると、結局のところ、動物にたいする倫理的配慮という考え自体、犬や猫を好きな人が自分の都合で主張しているだけの、恣意的なものだと言いたくなる人もいるかもしれない。倫理学において判断の一貫性が重要視されると述べたように、たしかに、犬や猫も豚や牛や鶏も、苦痛や恐怖を感じたり、喜びや期待に溢れていたりといった内面的な豊かさをもつという点には違いがないのだから、これほどまでに扱いが異なるのはおかしいと言えそうである。

では、一貫性を重視するとすれば、どちらの態度が選ばれることに――どちらの態度を他方の対象へと広げていくべきだということに――なるだろうか。先に見た倫理学の議論に基づけば、豚や牛や鶏を食べるために殺すことの方が倫理的に維持できない扱いということになるのは、ほとんど確かである。

他方で、私たちの多くがそうした発想をもちにくいのだとすれば、それはなぜなのだろうか。人の考え方や生き方は一貫しないものだし、人はそれほど倫理的にはなれない、と諦めてしまう方がいいと思う人もいるかもしれない。しかしながら、ここでもやはり、私たちの動物理解を手がかりにすることで、もう少し別の仕方で、動物にたいする扱いや態度をめぐるこうした齟齬を捉えることができると思われる。

おそらく一方では、私たちは、豚や牛や鶏についても、かれらが苦しみや喜びといった豊かな内面をもちうる存在だという動物理解をすでにもっている。犬や猫とは違って身近に接することが少ないため、畜産動物の内面について考える機会はあまりないかもしれない。しかし、かれらについて少しでも思いをめぐらせてみると、かれらの倫理的な重要性に気づかせるそうした理解は、否定しがたいものであるはずである。

他方で、畜産動物に関しては、ここまで見てきた動物理解を妨げてしまうような、別の理解や考え方もまた存在していると考えられる。以下では、簡単にではあるが、そうした理解や考えとして、代表的だと思われる2つを検討したい。

ひとつは、生物はみな「同じ命だ」という考えである。一見すると、この考えは、動物を大切にすることにつながりそうだが、とくに動物を食べることの是非をめぐる文脈では、その逆に働く傾向にある。というのも、こうした言葉は、「動物も植物も命である。私たちが生きるには、他の命を犠牲にせざるを得ない。そうだとすれば、植物を食べることは許され、動物を食べることは許されないと考えて、動物だけを特別視するのは正しくない」と主張するために用いられることがあるからである。

たしかに、植物は生物であり、「命」であるという点では人間も動物も植物も同じだと言える。植物もただの「物」とは異なる存在であり、むやみに傷つけたり破壊したりすべきではないというのはもっともかもしれない。しかし他方で、「命を大切にしよう」と言われるときに考えられているのは、たんに生物であるがゆえに大切だということなのだろうか。

少なくとも豚や牛や鶏などの動物の死は、植物とは異なり、苦痛を伴うだけでなく、喜び、興奮、期待、満ち足りた気分といった、私たちが自分や他者のなかに見いだしている重要なものの途絶も意味する。そうした特徴こそ、命が大切なものだと私たちに気づかせるものであり、人間とも共有されているものである。このように考えていくと、植物が枯れることと動物が死ぬことが、本当に同等だとみなされていると考えるのは難しいのではないだろうか。

また、たしかに私たちは、他の命を犠牲にすることなしに生きることはできない。しかし、そうした犠牲を本当に真剣に受けとるならば、少しでも犠牲を減らそうというのが素直な発想のはずである――少しでも犠牲が生じてしまうなら、いくら生じても同じだというのは、あまりに投げやりな考え方だろう。少なくとも、これほどまでに多くの動物を犠牲にしなくても人間は生きていけるのだし、畜産動物を育てるためには大量の植物の命が必要になる。

つまり、健康に生きるために動物を食べることがもし必要だとしても、動物を食べるのは本当に必要な分だけにして、植物を主に食べるようにすれば、生じる犠牲はずっと小さくできるのである。そうだとすれば、仮に「命」の重みが等しいという考えを真面目に受けとるとしても、動物も植物もどちらも区別なく犠牲にするという選択には無理があるだろう。このように、「同じ命だ」という言葉を掘り下げて考えてみると、「それゆえ、動物も植物も同じように扱わなければならない」ことになると主張するのは、難しいように思われる。

ふたつめは、畜産動物について言われる、人間が「食べるための存在だ」という理解である。こうした理解によって、多くの人は、動物の被る苦痛には関心を向けながらも、食べるために殺すということ自体に疑問を感じないのかもしれない。あるいは、豚や牛や鶏が「食用」であることは社会的に認められているにもかかわらず、倫理的な問題があると突然指摘されることに、反発を覚えるかもしれない。

しかし、「食べるための存在」という理解は、実際のところどのようなものなのだろうか。食用に適するように交配されていったからといって、その存在がもつ「何」によって、その存在は食べるための存在になるのだろうか。たとえば、ある犬種に、食用犬として飼育されてきた歴史があり、その後ろ脚が棒状になっているのは、食用に適するように運動能力を低くするためであったとしよう。だが、その特徴が、その犬を、たとえば柴犬とは違う「食べるための存在」にするだろうか。

こうした考えに無理があると思われるのは、どのような目的でその形質が変化させられてきたとしても、その犬も柴犬も、それとは独立に、それぞれ自身の生をもっているからである。たとえば物を切る目的で作られたハサミであれば、「物を切るための存在」だと言ってもいいだろうし、ハサミに関して重要なのは物を切るのに適しているかどうかだけだと言ってもいいかもしれない。

しかし、犬や猫や豚や牛や鶏などは、そうした存在とは異なる。かれらには、それぞれ自身にとっての幸せなあり方があり、それぞれが一個の「動物」として、喜びや期待をもって生きている。そうした特徴をもつ存在について、人間の「食べたい」という目的のための「道具」として存在しているとみなすことができるのかは、食生活に関して慣れ親しんできた思い込みから離れて、考え直す必要があるだろう。

倫理学は、私たちが当たり前のように受けいれているさまざまな理解について、その根拠を、いったん立ち止まって、もう一度よく考えてみようとする。ここで述べてきたように、動物にたいして倫理的配慮をする必要があるという考えは、動物の苦痛や喜びがもつ倫理的な重みを根拠にしている。ここで根拠の有無や是非が問われているのは、豊かな内面をもつ動物の生を、植物の命とひとまとめにする理解や、動物を食べ物として見る理解の方だと言える。

もちろん、豊かな内面をもつ存在として動物を理解することが、肉食をやめるべきだという倫理的判断に直ちにつながるわけではない。しかし、人間にたいするものを含めた日々の倫理的な配慮のあり方をふり返ると、相手にたいするそうした理解はたしかに重要な役割をもっている。動物にたいするふるまいについて、倫理的な観点から考え直す必要があるということもまた、否定しがたいだろう。

動物倫理の学術的な議論はすでにかなりの蓄積があり、現在も盛んである。その論点も多岐にわたっている。もちろん、個々の論点については対立もある〔より詳しく知りたい場合には、日本語の本として、伊勢田哲治2008『動物からの倫理学入門』や2015『マンガで学ぶ動物倫理――わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか』を参照してほしい〕。しかし、その議論に共通しているのは、本稿で見てきたように、動物の苦しみや喜びについて真面目に考えるということであり、また、自分自身の考え方のなかにある齟齬を少しでも解消し、自分にたいして少しでも誠実に生きようという姿勢である。動物倫理のこのような基本的な考え方が、本稿を通して伝わればと思う。

久保田さゆり(くぼた・さゆり)
倫理学
千葉大学アカデミック・リンク・センター特任研究員。専門は倫理学、とくに動物倫理。千葉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程修了(博士(文学))。博士論文「動物の倫理的重みと人間の責務―動物倫理の方法と課題―」、その他論文に「動物倫理における文学の役割」(『倫理学年報』第63集、2014年)等。
posted by しっぽ@にゅうす at 01:23 | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野良猫のエサやり、仔猫や野鳥の保護…間違った善意で苦しむ動物たち


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友森玲子さんが運営している『ミグノン』は、動物保護の活動だけでなく、動物病院とトリミングペットのフードやグッズなどの販売なども行うサロンを経営している。友森さんは本当は、動物保護だけの活動をしていきたいが、保護活動にかかる資金を募金だけで補うことは難しく、こういう形をとっているのだ。

保護犬猫を独身男性や60歳以上に譲渡できない理由

 こうして活動していると、「野良猫を保護した」「野鳥のヒナを拾った」という問い合わせがとても多いという。しかし中には、間違った善意によって、むしろ動物たちを苦しめる結果にもなりかねないというのだ。友森さんに現状を伝えてもらった。

野良猫の治療費を払うのは誰?
 先日、動物病院で仕事をしているときのことだった。
昼休みに、外来の老犬の歯科治療を終えて、容態を看ていたときだった。小学生ぐらいの子供を連れた母親が動物病院の診療室に入ってきたのだ。

 「あの……、具合が悪い野良猫がいるんですけど……」
「今、連れてきているんですか?」
「いいえ、捕まえて家にいます。近所の人たちで餌を上げている猫で、写真だけ撮ってきたんですが……」

 差し出すスマホには、確かに体調が悪そうな猫の写真が写っている。

 「保護できて治療費を払っていただくということなら治療はします。でも、感染症を持っている可能性があり、他の猫に感染るといけないので、患者さんがいない時間帯に予約をして連れてきてください」と私は説明した。すると、

 「治療費ですか……」と顔が曇る。そしてこう言った。

 「それだったら、保健所に連絡します」

 結局、その親子はそのまま帰ってしまった。

無責任な親子の後に、現れた救世主
 その後、30分ぐらい経っただろうか、別の女性が動物病院を訪ねてきた。

 「お忙しいところすみません。あの……、親子がこちらに訪ねてきませんでしたか?」と。
「あ、あの具合が悪い猫ちゃんの件ですか?」と尋ねると、彼女は話し始めた。

 「そうです! うちの近所でみんなで猫の餌をやっていたらしいんですが、猫の調子が悪そうで可哀想だ、保護するから猫のキャリーバッグを貸してほしいと言われ、貸しました。ところが、さっき戻ってきて“治療費がかかるからやっぱり逃がす”と言っていて。わざわざ捕まえておいて、治療費が負担できないからまた逃がすなんて、あまりに無責任だと思って、私が連れてきました。診ていただくことはできますか?」

 猫を連れてきてくれた女性は、すでに自宅で猫が4匹も保護していた。自分のキャパは超えているので、その猫に関しては保護できない、だから餌やりなどもせず、手を出さずに見守っていたという。

 彼女が猫の治療費を払うと言うので、どこまで治療するかを話し合った。ひとまず、トラブルが起きている目の感染症の治療と脱水対策で皮下点滴、持続型の抗生剤を注射して元の場所に戻して給餌だけする、これがコストも手間もかからない方法だ。彼女は「こうなったら最終的に自宅で保護することも考えます」と言ってくれ、入院し治療している間に預かり先を探すか、受け入れ準備をする形で進めることになった。


動物病院や動物ボランティアは便利屋ではない
 こういった負傷した動物の預かりや治療に関しての問い合わせは、ものすごく多い。お腹を空かしている猫や犬に餌をあげる。負傷した動物を見捨てられない、という思いを持つ人は多い。ただ、むやみに餌を上げれば、逆に飼い主のいない猫を増やしてしまうことになったり、地域との軋轢を生み、猫たちが暮らしにくい環境を作ることになったりしてしまう。

 負傷した猫もどうにかしてあげたいが、動物病院は無償では基本的には診ない。保護ボランティアに熱心な動物病院で低価格で治療するところもあるが、通常治療費はかかると思ったほうがいいだろう。この点について、よく「そんな獣医は非情だ」とか「傷ついている動物を見捨てるなんて」という声が上がる。でも、動物病院は慈善事業ではない。簡単に負傷した飼い主がいない動物を受け入れてしまったら、治療後の面倒や里親探しも病院がするのか、ということになってしまう。

 ならば、うちのような動物ボランティア団体が受け入れをすればいいじゃないか、という声もある。ただ、私たちも行政から援助を受けているわけでもなく、ギリギリの中でボランティア活動を続けている。前回での記事でも触れたが、こちらも保護できる動物のキャパが限られているため、動物愛護相談センターから命の瀬戸際にいる動物たちを引き出す際にも苦渋の選択をしているのだ。勝手に猫を餌やりして保護したからあとはよろしく、という保護依頼に答えられる余裕は、残念ながらない。

 ただ、今回のケースも含めて、多くの人が、善意で何かしたいと思っているのは事実だ。問題は動物を保護すること、負傷した動物と出会った時の対処を正確に知らないということ。学校で習うわけでもないので知らなくても当然だ。

 春先や秋口は仔猫が生まれるシーズンで拾うこともあるだろう。また、春から夏にかけて野鳥の巣立ちの時期でもある。街中はもちろん、夏休みに子供たちが野原や山で散策中に、動物と出会い、保護すべきか悩むこともあるかもしれない。保護が必要な動物と遭遇したとき、どう行動すべきかをまとめてみた。


かわいい!とすぐ手を出さず仔猫の保護は慎重に
 全国で致死処分される犬猫のうち、ほとんどは離乳前の仔猫だ。その理由は、仔猫が「保護」されてしまうからだ。人間に「保護」されたために「致死処分」されてしまう仕組みはあまりに単純だ。母猫が排泄をしている間や食べ物を探しているちょっとした時間に、「仔猫がいる! 保護しなくては!」と人間に見つかってしまう。言い方は悪いが母猫にしてみたら、誘拐になっているケースも多い。まずは、見つけても自分で飼えない場合はすぐに拾わず、母猫がいるかどうかを確認し、様子をみることが大切だ。

 多くの人は「仔猫を拾ったんですが」と交番へ届けてしまう。警察では育てることができないため、交番に預けた仔猫は、動物愛護相談センターなどへ送致される。多くは致死処分されてしまうのだ。

野良猫のエサやり、仔猫や野鳥の保護…間違った善意で苦しむ動物たち
仔猫は授乳・排泄介助、体温維持などケアには手間もかかる。まずは獣医に飼育法を相談して。写真/友森玲子
仔猫を保護したら動物病院に連れて行くことが先決
 しばらく観察しても親がいなくて困っているような仔猫を保護してしまったら、のんびりはしていられない。まずは仔猫の週齢や健康状態把握のために動物病院に連れて行こう。このとき、前にも伝えたが、治療費の負担もあることは覚悟しておくべきだ。

 仔猫は体温保持が重要だ。38~39℃ぐらいが平熱なので、触って暖かく感じない場合は低体温で危険な状態。ペットボトルにお湯を入れて湯たんぽなどにし、暖かくしてあげた状態で動物病院へ連れて行こう。温めてあげると口の周りがピンクになり、もぞもぞと動き回り乳を探す行動をするようになる。このとき、体が汚れていても素人判断で洗ってしまうのは命取りになるので注意が必要だ。

 仔猫のケアでもっとも重要なのが、授乳と排泄だ。乳歯が生えていない場合は、生後1ヶ月前後で離乳するまでは数時間おきのミルクが必要となる。必ず子猫用のミルクを購入し、36~38℃のお湯で溶いて2〜3時間おきに終日飲ませる。

 さらに、この時期は母猫がお尻を舐めて排泄を促すため、濡らしたティッシュペーパーなどでお尻を軽く叩くように拭いて排尿と排便をさせる。授乳期は手がかかるため、仕事中に預かってもらえる動物病院を探すなど調整も必要になるかもしれない。


事故や病気で弱っている動物をみつけたときは?
 では、事故や病気などで弱っている動物を見つけたらどうしたらいいか。まずは周りの交通状況を確認して、そこが危険な場合は安全な場所へ移動させよう。自分で医療費などの責任を取れない場合は、致死処分になるのを覚悟で行政へ連絡をするか、他の人が保護してくれるのを祈って置いて行く。残酷なようだが、「動物を保護する」ということは「その時点でその人に責任がかかってくる」ということだと意識しなくてはいけないのだ。

 助けたい場合は、近くのコンビニなどで段ボールなどをもらってきて保護をし、すぐに診察してくれる動物病院を探そう。動物病院に連れて行ったら、見つけた時の状況を話し、治療の選択肢と、それに伴う費用を聞き、どこまで行うかを獣医師と相談しよう。交通事故などの場合、治療費が高額になってしまうこともある。また、障害などが残ってしまうこともある。そのあたりも含めて、厳しい選択含めて獣医とともに現実に向き合う必要もあるのだ。

 さらに、気をつけねばならないのが、本当に飼われていない動物かということだ。以前、交通事故に遭った猫を動物病院に連れて行こうとしたら、通りの向かいの家から「うちの猫です」と声がかかったことがあった。猫の場合、完全室内飼いでない人もいるため、こういったこともありうる。近所の猫かどうか確認する、迷い猫を保護している旨をチラシやポスターなどで告知するなども必要だろう。

ノーリードの犬は、勝手に保護せず警察に連絡を
 犬を散歩させるときには当然リードを使う必要がある。しかし、ノーリードで歩いている犬を見かけることがある。そんなときは、まず近くに飼い主がいないかを確認しよう。いなくても、自己判断で捕まえようとするのは危険だ。急に声をかけたり、追いかけたりすると、逃げたり襲いかかってくることもある。

 刺激をしないようにその犬の特徴を観察し、所轄の警察署へ連絡しよう。犬の精神状態が安定していて余裕がある場合は、呼び寄せて保護することもできるだろう。その後、警察に連れて行くと、仔猫同様、動物愛護相談センターへ送られる。野犬が多い一部の地域以外は、野良猫と違って野良犬は減少している。ウロウロしている犬の場合、飼育放棄の場合も多いが、飼い主がいる迷い犬の可能性も高い。動物愛護センターに送られ、飼い主が預かり期間に現れない場合は、致死処分になってしまう場合もある。

 猫のときと先に述べた猫のケースと同じように、近所や知人に当たる、迷い犬を預かっていると告知することも大切だ。


巣立ちのヒナは拾わずに見守るのが基本
 仔猫と同じぐらい問い合わせが多いのが、「鳥のヒナが落ちていた」という問い合わせだ。特に、春から夏の時期は、さまざまな野鳥のヒナの巣立ちの時期。落ちていたと拾ってしまうが、実は巣立ちの練習中のヒナで、離れたところで親鳥が観察しているケースがほとんどだという。親鳥は、定期的にヒナに餌を与えながら、ヒナが自らの力で飛び立つのを見守っている。それを保護してしまうと、巣立ちの邪魔をしたことになってしまうのだ。

 しかも、野鳥を人工的に育てるのは、とても難しい。鳥の体温は高いため適切な温度管理が重要だし、ストレスにも弱い。1時間ごとにその鳥の種類に合った消化の良い餌を与え続けなくてはならない。さらに、ヒナは親鳥から学ぶことが多く、拾ってしまうと自力で生きていく力を奪ってしまうことにもなってしまうのだ。

 もしも地面にいるヒナを見かけたら、交通量が多い道でならば、落ちていた場所から離れていない安全な場所にそっと移動させる程度に留めておいたほうがいいだろう。

交通事故などで動物の遺体と出会ってしまったら
 悲しいことだが、交通事故に遭った猫や犬に遭遇することもある。自分が轢いてしまうというケースもあるかもしれない。特に、猫は急に飛び出し、車のライトを見ると逃げずに止まってしまうことがあるため、交通事故に遭いやすい性質を持っている。運転手側に落ち度がなくても、事故が起きやすい。こういった事故を少しでも減らすためには、飼い猫の室内飼いを徹底することも必要だ。

 万が一、交通事故で動物を死なせてしまった、死んでいる動物と出会ってしまったという場合は、2つの対処法がある。ひとつは、道路を管轄している清掃局へ連絡をすること。遺体を回収に来てくれる。

 次に数千円の費用負担と少しの時間の余裕がある場合には、近隣の動物病院へ問い合わせをして、病院葬で交通事故の動物を霊園に出してもらえるか聞いてみよう。動物病院が対応してくれる場合は、ダンボールやタオルなどに遺体を包み連れて行くといいだろう。このとき病院で、ついでに迷子札やマイクロチップなど、所有者の手がかりがないか調べてもらおう。また、埋葬前の写真を撮影しておくと、飼い主が探していた場合に後日確認ができる。


保護には慎重に。でも、保護から生まれる思いもある
 淡々とした書き方をしてしまったので、冷たく感じたかもしれないが、以上が住宅街などで起こりやすい動物とのハプニングだ。そのとき、自分がどう行動するかの尺度は、“手を差し伸べることがその動物にとってプラスになるかマイナスになるか”を冷静に検討して、保護するか決めて欲しいと思う。

 子供の頃に親に言われた人も多いと思うが、「自分が世話をできないのに生き物を拾ってはいけない」、これは正しいと思う。動物のかわいそうな姿を見るのは誰しもつらいことだ。でも、拾うだけ拾って、あとは動物病院かボランティアにどうにかしてと押し付けようとして、トラブルを起こしてしまう人もいる。

 ペットとして迎えるときだけでなく、動物を保護するときも自分の決断に責任を取り、世話をする時間や環境、かかる費用なども考え、負担をする、ということがとても大事なことだと思う。

 しかし、動物たちの思わぬ出会いは厳しいことばかりではない。私も保護団体を立ち上げる前から、驚くほどよく動物を拾っている。確かに、保護することによって発生する種々の面倒もある。仔猫のシーズンなど寝ないで授乳・排泄をするときもある。でも受け入れて治療や世話をすることによって、得がたい経験をし、楽しませてももらっている。私にとってはこれも大事な出会いなのだ。

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「いぬねこ仲間フェスタ2019〜動物愛護週間に集まろう〜」9月23日開催! 

毎年9月20日〜26日は、「動物の愛護と適正な飼養についての理解と関心を深める」ことを目的とした動物愛護週間。友森玲子さんが動物を愛する多くのゲストと共に登壇するイベントも開催されます。
登壇者(50音順)akiko、浅田美代子、糸井重里、スティーヴ エトウ、大槻ケンヂ、坂本美雨、鈴木杏、椿鬼奴、富樫春生、友森昭一、友森玲子、町田康、水越美奈 ほか
詳しくはこちらから→https://www.1101.com/pl/mignonplan/
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友森 玲子
posted by しっぽ@にゅうす at 01:21 | ペット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明るい老犬介護とは?〜ワンちゃんへの恩返し〜

ネタりか



いつも私たち飼い主を癒してくれているワンちゃんたち。
真夏のこの時季は毎日のお散歩が少し心配ですが、日々のお散歩はもちろんのこと、時には一緒にお出かけを楽しんだり、飼い主に元気がない時は、そっと寄り添って元気をくれる愛しい存在です。
そんなワンちゃんたちも年齢を重ねると、いつかは介助や介護が必要な時がやってきます。今回はちょっとした工夫と心がまえで、前向きにお世話ができるよういくつかポイントをご紹介します。
暑さに弱いワンちゃんたちにとっても、つらい時季になりましたので、お散歩の時は保冷剤を包んだバンダナをワンちゃんの首に巻くなど、暑さ対策をしながらこの夏を乗りきってくださいね。

大型犬の介護は体力勝負
大型犬を家族に……と思った時は、将来のことも考えて迎えましょう!
大型犬を家族に……と思った時は、将来のことも考えて迎えましょう!
ワンちゃんの体の大きさによっては、介護の負担もだいぶ違ってきます。
チワワやトイプードルなどの小型犬と比べると、柴犬などの中型犬や特に大型犬の介護は飼い主さんの体力勝負となります。
ワンちゃんが高齢になると、多くが後ろ脚から弱っていきます。思うように歩けなかったり、自力で立てなくなった時、脚の弱った中型犬や大型犬の体を、飼い主が腰をかがめて支えたり、抱きかかえることはとても大変です。
そのような時は、歩行補助ができる持ち手が付いたハーネスをワンちゃんに着用させてもいいでしょうし、最近はお散歩カートや車椅子などいろいろありますので、事前に調べておくと安心かもしれませんね。

ワンちゃんたちは大切な家族の一員
介護は「息抜き」することも大切!
介護は「息抜き」することも大切!
ワンちゃんが高齢になってお世話が大変になってきた時、信じられないことに長年家族として暮らしてきたワンちゃんを見捨て、保健所や動物愛護センターに持ち込む人も少なくありません。それは絶対にしてはいけないことです。
飼い主さんの急病でどうしてもワンちゃんのお世話が難しくなってしまった……
仕事の都合で昼間のお世話ができない……
ワンちゃんの介護疲れで体調を崩してしまった……など
ワンちゃんのお世話ができなくなるさまざまな状況が起こらないとは限りません。
さらに、ワンちゃんの体のケアや、夜鳴きや夜間のお世話で寝不足が続いたりすれば、飼い主の心が折れてしまうこともあります。それは介護期間が長くなればなるほど起こり得ることといえます。
そんな時には、代わりにお世話をしてくれる「老犬ホーム」を利用する方法もあります。
そうした施設では短時間・短期間、状況によっては長期でお世話をしてもらうことも可能で、その際は面会に訪れることもできますし、あるいは、自宅で介護をする場合の介護方法のアドバイスをしてくれるところもあります。
多くの飼い主さんは、愛しいわが子のお世話は最期まで自分でやりたい、ずっと一緒にいたいと思っているはずなので、老犬ホームに「預ける」という選択をせざるをえない飼い主さんには葛藤もあると思います。
でも、体力的・精神的にどうしてもつらい時は、介護のプロにお願いするという選択もあっていいのではないでしょうか。頑張りすぎず、時には息抜きをすることも、とても大切ですから。

工夫をして、ともに快適に過ごす
体が沈み込んでしまう低反発マットよりも、高反発マットを選びましょう!
体が沈み込んでしまう低反発マットよりも、高反発マットを選びましょう!
「どこか今までと違うな」とワンちゃんの体に異変を感じたら、まずは動物病院で病気がないかを調べてもらい、その原因が老化によるものだとわかったら、さまざまなケアが必要になってきます。
たとえば…
●ワンちゃんがまだなんとか自力で歩けるうちは、ケガがないように必要であれば部屋のレイアウトを変更し、フローリングにはカーペットや滑りにくいマットなどを敷いて、少しでも歩きやすいように工夫してあげる
●老犬になると寝ている時間が長くなるので、床ずれを防ぐ体圧分散マットなどを使い、寝心地のよいベッドを作ってあげる
●脚の筋力はあっという間に衰えてしまうので、自力で歩けるうちはできるだけ散歩に出かける(歩けなくなっても、お散歩カートなどを使用して、外の空気に触れさせてあげる)

老犬介護は神様からの贈り物の時間
介護に後悔はつきもの! 試行錯誤を繰り返しながら、前向きにお世話を楽しんで!
介護に後悔はつきもの! 試行錯誤を繰り返しながら、前向きにお世話を楽しんで!
介護というと、愛しいわが子の老いに直面し、つらく悲しいものだと思いがちですが、決してつらいことばかりではありません。若い頃はヤンチャだった性格も、高齢になると穏やかになる場合が多く、その優しい顔も、安心した寝顔も、そのすべてが愛しく、お世話が大変になればなるほど、飼い主は必要とされる幸せを実感します。
試行錯誤を繰り返しながら、スムーズにお世話ができるようになった時の喜びもひとしおです。
介護とは、これまで私たち飼い主をたくさん癒して楽しませてくれた、ワンちゃんたちへの「恩返しをする時間」だと思うのです。
老犬の介護をしていると、明日、1週間後、1か月後、半年後はどんな状況になっているだろう……と、先の不安を抱えながらつい悲観してしまいますが、ワンちゃんたちはそんな心配はしておらず「今」を生きています。
もちろん日々のお世話は大変なこともたくさんあるかもしれませんが、飼い主さんがいつも笑顔でいてくれたら、ワンちゃんたちはきっと安心して毎日を過ごせるはずです。
介護が必要な時がきたら、介護ができる幸せをかみしめながら、そのかけがえのない時間を大切にワンちゃんと過ごしてくださいね。
posted by しっぽ@にゅうす at 01:18 | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シニア犬をテーマにした体験型ドッグカフェ:犬と人が幸せになれる高齢化社会とは

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──「少しでも目を放したくない」というシニア犬の飼い主のために
<少子高齢化が大きな社会問題になっている日本。それと歩調を合わせるように、ペットの高齢化も進んでいる。そうした中、シニア犬の一時預かりもする新しいスタイルの“体験型ドッグカフェ”が、東京・世田谷にオープンする。オーナーで、シニア犬専門のフリーマガジン編集長の中村真弓さんに、オープンに至った経緯やシニア犬に寄せる思いを聞いた>

■ “犬の団塊の世代”の高齢化が進行中

近年、ペットの飼育頭数の増加、平均寿命の伸びと共に、高齢の犬猫と共に暮らす世帯が増えている。犬の平均寿命は、かつては10歳前後と言われていたが、全般的な飼育環境の向上から上昇の一途をたどり、2012年以降は14歳を超えている。これは、人間の年齢に当てはめると、小型犬なら72歳、大型犬なら88歳とされる。2018年の日本人の平均寿命が男性81歳、女性87歳だから、家庭犬も人間並の長寿になっているのだ。

シニア犬をテーマにした体験型ドッグカフェ:犬と人が幸せになれる高齢化社会とは
2004年生まれの我が家の15歳のフレンチ・ブルドッグも、今年の梅雨入り頃から要介護状態になった。全国で同じ“団塊の世代”の犬の高齢化が進んでいる
翻って、石器時代まで遡れば、人類の歴史は犬と共にあったと言っても過言ではない。野生のオオカミが家畜化して犬になると、狩猟のパートナーに始まり、牧羊犬、軍用犬などに活躍の場を広げていった。近代の日本では、軒先の犬小屋につながれた「番犬」が主となった。今のように家の中で家族の一員として生活を共にする「家庭犬(コンパニオンドッグ)」が大勢を占めるようになったのは、ちょうどペットブームと言われ始めた2000年ごろからではないかと筆者は考えている。

僕が初めて迎えた犬は2003年生まれのフレンチ・ブルドッグのオスで、2014年に11歳で亡くなった。生きていれば16歳である。そして、その犬と一緒に飼ってきたメスのフレンチ・ブルドッグ『マメ』は、現在15歳3カ月の超高齢犬で、心臓と腎臓に持病を抱えて要介護状態にある。僕自身が2000年代のペットブームに乗った形で、今まさに“犬の団塊の世代”に当たる高齢犬と暮らしているわけだ。そして、同じように犬の介護に悩んだり、情報を求めている飼い主は、今、かつてないほど増えている。


■「少しでも目を放したくない」というシニア犬の飼い主のために
そうした中、「体験型ケアドッグカフェ」と銘打った『meetぐらんわん!』が8月3日に、東京・世田谷区用賀にオープンする。これまでに類のないシニア犬ウェルカムなドッグカフェであるばかりでなく、1時間からの日帰り限定で一時預かりもする。ペットホテルや一時預かりをする施設は数多くあるが、シニア犬を積極的に預かる所はこれまでほとんどなかった。オーナーは、シニア犬専門のフリーマガジン『ぐらんわん!』編集長の中村真弓さん。自身も老犬介護を経験し、11年間の雑誌編集を通じて、長年シニア犬ライフに関わってきた。

「カフェの一角のスペースで一時預かりをします。ペットホテルや老犬ホームではありません。介護中の犬はちょっとでも目を離せないですよね。たとえば『一時間だけ家を空けて美容院に行きたい』と思っても、『でも、その間に何かあったらどうしよう』と、外出もままならない人が多いのです。そうした人たちのためのシニア犬の預かりを考えています」

我が家も今、まさにその状態だ。この取材にあたっても、妻と要介護状態の老犬を残して長野県の自宅から上京したのだが、前日の深夜に日用品の買い出しや月末の支払いを一通り済ませてから、妻が外出しなくて済むようにしてきた。実際のところ、1時間程度の外出の間に不測の事態が起こる可能性は極めて低いかもしれない。それでも、ほとんどの要介護犬の飼い主は、少しでも目を放したくないと思うのではないだろうか。

シニア犬をテーマにした体験型ドッグカフェ:犬と人が幸せになれる高齢化社会とは
中村真弓さん
■シニア犬を「オープンな存在」に
『meetぐらんわん!』では、営業時間の午前10時から午後7時までの間で、1時間からの日帰りでカフェの一角に並べられたケージ内で預かる。ケージが苦手だったり、気晴らしが必要な場合には外に出してカフェのお客さんや他の来店犬と交流させたり、個々のニーズに応じて営業時間外の預かりにも対応する。一度に預かる上限は5頭まで。テーブル席4席のカフェという狭いスペースだが、それもスタッフの目が行き届く範囲で運営するためだ。

利用をシニア犬に限定するわけではない。ただ、カフェでは、若い犬や必要のない犬も含め、おむつの装着を推奨する。それには、いつかおむつをしなければいけない時が来た時のための「練習」の意味もあるという。また、「百聞は一見にしかず」で、まだ老化現象が出ていない犬の飼い主が実際に認知症の犬や足腰が立たなくなった犬を見て、将来の参考にしてほしいという思いもある。「雑誌の文字情報だけでは分からないことがたくさんあります」と中村さん。「体験型カフェ」とした狙いはそこにある。

中村さんはほぼ店に常駐する予定で、男性店長はドッグトレーナーの資格を持つ。また、ペットケアマネージャーらシニア犬の専門家にも定期的に来店してもらう予定だ。「カフェのお客さんが、スタッフをつかまえて『うちの子はこうなんだけど、どうしたらいい?』と相談できる場になれば。犬の介護を始めると、どうしても家にこもりがちになってしまいます。悩みや思いをみんなと分かち合うと介護疲れも癒やされるし、情報交換もできます。『オープンな介護』を実践することで、シニア犬そのものをオープンな存在にしたいと思っています」


■シニアだという理由で診察やサービスを断るケースも
「シニア犬をオープンにしたい」という中村さんの言葉の背景には、“臭いものに蓋”ではないが、日本社会ではまだまだシニア犬が十分に社会に受け入れられていない実情がある。飼育放棄された保護犬の場合も、子犬や若い犬は比較的すぐに引き取り手が見つかるが、老犬はそうはいかない。筆者も、以前、自宅近くで年老いた迷い犬を保護したが、どこの保護団体に連絡しても「老犬は引き取り手がないから」と断わられ、結局うちで保護して最後まで看取った経験がある。長年取材している盲導犬育成団体の「(公財)アイメイト協会」でも、アイメイト(盲導犬)を引退した犬を引き取るリタイア犬奉仕者は、訓練前の子犬の飼育奉仕やアイメイトになれなかった犬を引き取る不適格犬奉仕に比べて希望者がかなり少ない。

中村さんも、専門誌を立ち上げてシニア犬の情報を発信するようになった経緯をこう話す。「2005年に独立して犬を飼える環境が整ったのを機に、実家から14歳のシー・ズーを呼び寄せたんです。ところが、実際にその子と暮らし始めるとシニアだということが理由で、色々な不便がありました。動物病院に連れていくと、『こんな年齢で新しい病院に来られても困る。元の病院に通い直してください』と診察を断られたことも。トリミングとペットホテルも断られ続けました」。当時はシニア犬の情報が少なく、まとまった情報の必要性を痛感した中村さんは、シニア犬専門のフリーマガジンを自ら発行することにした。

このように老犬が避けられる理由の一つは、責任回避であろう。平たく言えば、「うちで死んでもらっては困る」といった話だ。これまでにシニア犬向けの預かり施設やドッグカフェがほとんどなかったのも、この責任問題の壁があるからではないだろうか。リスクを負ってでもやるべきことだという覚悟を持ってオープンを迎える中村さんも、一定のリスクヘッジは考えている。「初めて預かる際には、しっかり飼い主さんにカウンセリングします。個々の状況に応じたケアをさせていただくと共に、双方の考え方が合わない場合にはお断りさせていただく場合も出てくると思います」と言う。


■万が一の時には最高の見送り方を
『meetぐらんわん!』を各都道府県に1店ずつ出すくらいにまで普及させるのが中村さんの夢だ。そのように長く広く続けることになれば、当然、預かり中に危険な状態に陥ったり、最悪の場合は亡くなってしまう犬も少なからず出てくるだろう。中村さんは、「経験豊富なスタッフが、犬の状態を見て危険だと判断すれば飼い主にすぐに連絡をする」「最寄りの動物病院に連れて行く」という段階の先に、「スタッフ皆で誠心誠意看取る」というステージを今から想定している。

「万が一そうなった時には、そのワンちゃんが寂しくないように最高の見送り方をしてあげるのが務めだと思っています。そして、飼い主さんにどれだけ納得してもらえるか。どういうふうに亡くなったのかと代わりに見て伝えてあげることで、飼い主さんの気持ちを落ち着けるのが大事だと思います」

何百万年も人類と共に生きてきた犬にとって、「主人」と共に生き、その腕の中で最期を迎えるのが最高の幸せだ。一方、近年は高齢化などで最後まで看取れない家族も増え、全国に「老犬ホーム」が急増している。これもまた、最終的なセーフティネットとして必要な施設ではある。ただ、人間ならば自分の意思を伝え、家族の事情などとすり合わせて自らホームに入る選択肢も取れるが、ものを言えぬ犬にはそれができない。犬の場合はあくまで、家族・友人やボランティアといった一般家庭での引き取りを優先するべきで、ホームはやむを得ない場合の最終手段と考えるべきであろう。

1,000頭を超えるこれまでのアイメイト(アイメイト協会出身の盲導犬)のリタイア犬は、全てボランティアらのもと、一般的な家庭犬として余生を送った。アイメイト協会の塩屋隆男代表理事は、「主人となる人がいて、人間と共に暮らしていくのが犬の幸せです。そうした施設に入れてしまうのは当協会としては非常にかわいそうなことだと思っています」と語る。中村さんも同様に考えているため、『meetぐらんわん!』では、あくまで「一時預かり施設」という線を守ることにした。


■「シニアだからこそおいで」という場所に
これまでに2頭の愛犬を見送っている中村さんは、「犬は亡くなる直前に必ず感謝の気持ちを伝えてくる」と言う。「1頭は保護犬でした。その子はしっぽを振ったことがなかったのですが、最期にすごく振ってくれて、号泣してしまいました。もう1頭は最後の2日間は意識がなかったのですが、旅立つ瞬間に意識が戻って、私の顔をじっと見てから亡くなりました。犬にも感謝を伝えるタイミングが必要なんだと思います。飼い主としても、それがあって初めてお別れできるし、気持ちの整理ができるのでしょう」

容態が悪化した愛犬を一縷の望みを託して入院させ、出張とも重なって最期を看取ることができなかった筆者にとっては、重い言葉だ。同じような後悔を抱える飼い主を増やさないためにも、シニア犬に関する情報交換や、経験者との交流の場は必要だと思う。

「19歳、20歳まで生きた犬の中には『毎日行きつけのカフェに行って人と触れ合っていました』という子も多いんです。年老いても、近所に出かけるなどして毎日刺激を与えてあげるのが大切だと思います。だから、シニア犬と飼い主さんが安心して来られるような、『シニアだからこそおいで』という場所にしたいとい思います」(中村さん)

シニア犬をテーマにした体験型ドッグカフェ:犬と人が幸せになれる高齢化社会とは
既に介護状態に入っていた7月17日、マメは久しぶりに帰宅した僕を追って突然駆け出した。これが最後に見せてくれた元気な姿
■最愛の『マメ』に捧げる
この原稿、ここまで書いた段階でいったん入稿したのだが、付け加えなければいけないことが起きてしまった。

先に我が家でも要介護犬を抱えていると書いたが、そのフレンチ・ブルドッグのマメ(15歳メス)が、僕がこの原稿を書き終えて自宅に帰った直前に亡くなってしまった。マメが一番なついていた妻がつきっきりだったので、一人寂しく逝かせることにはならなかったが、僕はまた、前の犬を病院で一人逝かせてしまったことをあれだけ後悔したのに、マメを見送ることができなかった。

でも、不思議と前の時ほどは胸が張り裂けるような思いはない。フェードアウトするような緩やかな弱り方から最期を迎えたこともあるが、僕はすぐに、犬は最期に何らかの形で飼い主に感謝の気持ちを伝えるという、中村さんの持論に思いを馳せた。

マメが、僕がまさにシニア犬との暮らしとお別れをテーマにしたこの記事を世に出そうとしているその瞬間に旅立ったのは、あまりにもできすぎた偶然だ。僕が犬の記事を書いたり写真を撮る仕事をライフワークにしているのを、知っていたわけではないだろう。でも、マメは、こうして皆さんに、このタイミングで、この内容の記事の中で報告するという、最も僕らしい形でお別れを言う機会を与えてくれた。

シニア犬をテーマにした体験型ドッグカフェ:犬と人が幸せになれる高齢化社会とは
写真:内村コースケ
そうに違いないから、この記事をマメに捧げます。ありがとう、マメ!

内村コースケ(フォトジャーナリスト)
posted by しっぽ@にゅうす at 01:17 | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マイクロチップ装着を一日も早く! 災害時、犬・猫の飼い主の特定を可能に


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【人とペットの赤い糸】

 先月12日の参議院本会議で、販売用の犬・猫に飼い主の情報を記録するマイクロチップ装着の義務化などを柱とする改正動物愛護管理法が、全会一致で可決、成立した。犬・猫の繁殖業者・販売業者などには販売前の装着と所有者情報の環境省への登録、犬・猫を迎え入れた飼い主には情報変更の届け出をそれぞれ義務付ける。マイクロチップの義務化で飼い主の責任を明確にし、捨て犬・捨て猫を防ぎ、災害時に飼い主を特定することが可能となる。

 筆者は以前から装着を提唱してきたが、ようやく関係者のご尽力で実施されることが決まった。

 しかしながら、実施は公布から3年以内で、現在犬・猫を飼育している飼い主に対しては装着は努力義務とされている。

 近年、日本は災害が頻発しており、いつ南海トラフの大震災が発生してもおかしくない状況だ。装着時期の先延ばしは、阪神淡路大震災や東日本大震災で犬・猫の所有者が長期間に渡って特定できなかった経験が生かされず、動物愛護、福祉の観点で疑問を抱かざるを得ない。

 昨年12月末現在、日本獣医師会のマイクロチップ装着頭数から試算すると、日本の装着率は犬が16・8%、猫では4・2%で、装着されていない犬は740万8000頭、猫は924万2000頭にも上る。

 マイクロチップは直径2ミリ、長さ8〜12ミリ程度の円筒形で、獣医師が注射器で体に埋め込む。情報を入力した15桁の番号を専用のリーダーと呼ばれる機械で読み取ると、飼い主の情報が分かる。

 マイクロチップを体内に埋め込むことに抵抗のある飼い主も存在するが、装着するメリットは次のような点だ。

 (1)災害時など、逃げ出したペットといち早く再会するのに役立つ。

 (2)ペットの盗難を減らすことに貢献する。

 (3)健康管理としても利用できる。

 (4)捨て犬・捨て猫を防ぐ。

 (5)殺処分されるペットの数を飛躍的に減少させる。

 (6)飼い主に安心、ペットに安全を与え、不幸なペットを激減させる。

 (7)海外の主要国では、マイクロチップ埋め込み証明書が必要になる。

 マイクロチップの情報は常に最新のものにしておく必要がある。また、データを読み取るリーダーも動物病院やペット専門店、ブリーダーだけでなく、ペット用品を販売する所や避難所など、できるだけ多くの施設で設置されることが望ましい。

 東日本大震災では、逃げ出した犬が他の人に里親として引き取られ、実際の飼い主がようやく見つけ出し、「わが家の犬だから返してほしい」と頼んだが、家が流されて写真や証明するものがなかったため返してもらえなかったという不幸な事態も起こった。

 改正動物愛護管理法では、販売業者には公布から3年以内、現在飼育している数多くの飼い主にはマイクロチップの装着は努力義務としたが、前述のメリットや二度と不幸な事態を起こさないためにも、全ての犬・猫に1日も早く装着されることを切に望みたい。

 ■越村義雄(こしむら・よしお) 一般社団法人「人とペットの幸せ創造協会」会長。同ペットフード協会名誉会長。一般財団法人日本ヘルスケア協会理事、「ペットとの共生によるヘルスケア普及推進部会」部会長など。
posted by しっぽ@にゅうす at 01:15 | ペット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする