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若山三千彦 ペットと暮らせる特養から
80代になっても元気で一人暮らしをされていた、いえ、愛犬のかわいいポメラニアンのチロとふたりでくらしていた伊藤大吉さん(仮名)が、胸に痛みを覚えたのは2015年7月のことでした。病院で検査を受けた結果は、肺がんでした。すでに転移があり、手術は不可能な状態でした。末期がんで、医師からは余命6か月の宣告が下されます。いくら高齢とはいえ、あまりにも突然にやってきた人生の終末期でした。
末期がんで「余命3か月」…一人暮らしの80代男性 愛犬と暮らせる場所を探して
伊藤大吉さん(仮名)
ホスピスを勧められたが……
医師からはホスピスへの入院を勧められました。また、もう一つの選択肢としては、入院して、抗がん剤による延命治療がありました。
高齢の方、特に80代以上の方は、がんになっても治療を望まない場合があります。「さくらの里山科」の入居者の中にも、80代、90代でがんが見つかった方は何人もいますが、みなさん、手術も抗がん剤もやりませんでした。私も、高齢で身体が弱っていることを考えると、手術や抗がん剤で体力を消耗するよりは、治療をせずに静かに暮らした方が、生活の質(QOL=Quality of Life)は良好に保てる場合が多いと思います。
伊藤さんも、抗がん剤は希望しませんでした。しかし、困ってしまったのは、それならどこで生活するか、という点です。伊藤さんは、それまで一人暮らしができていたのですから、お体はある程度しっかりされていました。買い物に行くのも、チロの散歩も、杖(つえ)があれば問題なく歩けていました。認知症もありませんでした。
「残り少ない時間をチロと過ごしたい」
しかし、末期がんとなれば、これから急激に身体が弱っていくのは明白です。近いうちに歩くこともままならなくなるでしょう。一人で暮らすのは、どうやっても無理に決まっています。
伊藤さんには娘さんがいます。他県で暮らす娘さんの家から伊藤さんの家までは車で1時間以上かかるのですが、それでも娘さんは月に1〜2回はやってきて、大きな買い物をしたりするなど、伊藤さんの生活をサポートしていました。しかし、伊藤さんが動けなくなったら、そのようなサポートだけでは生活はできません。とはいえ、娘さんにも自分の生活があり、遠方から頻繁に訪れるのは不可能です。
そのような事情もわかっていて、医師はホスピスを勧めたのでしょう。しかし、伊藤さんはホスピスも望みませんでした。それは愛犬チロがいるからです。延命治療のための入院でもホスピスでも、チロとは別れなければならなくなります。それは伊藤さんにとってつらいことでした。
もちろん伊藤さんも葛藤があったと思います。延命治療をするか、ホスピスに入るか、悩んだことでしょう。でも結局、伊藤さんが選んだのは、「自分に残された時間が残り少ないのなら、その時間をチロと一緒に過ごしたい」ということでした。
頭を抱えた娘さん 入居を申し込まれた側も……
伊藤さんの希望を聞いて、娘さんは最初、頭を抱えたそうです。病院やホスピスを望まないなら、あとは老人ホームしかない。しかし末期がんの高齢者を受け入れてくれる老人ホームなどあるのだろうか? ましてやペットと一緒に入居できる老人ホームなどあるわけがない。普通は誰でもそう考えるでしょう。
頭を抱えながらも娘さんは、ペットと一緒に入居できる老人ホームを探し、さくらの里山科にたどり着きました。入居申し込みがあったのは、9月半ばのことでした。
伊藤さんの入居申し込みを受けて、正直なところ、私も頭を抱えたくなりました。末期がんの高齢者を新たに受け入れることは前例のないことでした。
末期がん等の状態で余命が限られている方の介護をターミナル・ケア(終末期介護)と言いますが、うちのホームでは、より一般的な言い方である看取(みと)り介護と言う言葉を使います。看取り介護は、ホームにとって大きなリスクがあることです。そのため、入居者本人や家族としっかりした信頼関係ができていないと、うかつに私たちも看取り介護はできないのです。ですから、すでに看取り介護状態にある高齢者の入居を受け入れることは通常は行っていませんでした。
推奨されるホームでの看取り
特別養護老人ホームで看取りを行うこと。すなわち病院で亡くなるのではなく、ホームで亡くなるのを職員が看取り介護をすることは、昨今、厚生労働省が推奨しています。そのため、多くのホームが看取りを行っています。
「さくらの里山科」では、毎年30名前後のご入居者様が亡くなりますが(現在の特別養護老人ホームは入居者が重度化しており、亡くなる方が多いのが普通です)、そのほぼ全てをホームで看取っています。
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看取り介護の実施は非常に慎重
しかし、それでも私たちは看取り介護を行うのには非常に慎重です。それは看取り介護には大きなリスクがあるからです。リスクの主なものは家族とのトラブルです。それはどんなものか、一つ例をあげて説明します。
看取り介護の結果、ホームの中で入居者が亡くなります。その時は、家族も穏やかに見送られたのに、数日後に豹変(ひょうへん)する場合があるのです。最期に体調が急変した際、「なぜ救急車を呼ばなかったのか」「それはホームの過失ではないか」と責めてくるのです。もちろん、看取り介護をするのですから、「体調が悪化しても救急車は呼ばない」と家族と話し合って決めています。それでも、なぜ救急車を呼ばなかったと責められる場合があるのです。その背景には、家族間のもめごとがある場合が多いと思います。
救急車呼ばなかったことで家族とトラブルも
例えば、いつもホームに会いに来て、ホームといろいろ相談している家族(私たちはこのようなご家族様をキーパーソンと呼んでいます)が長男だとします。入居者が亡くなった後、遠方にいて、普段は会いに来られない次男が、「なぜ救急車を呼ばなかったのか」と兄を責め立てるんです。次男は、最後の頃の入居者様の状態を実際には見ていなかったので、救急車を呼ばなかったことが納得できないのですね。
もちろん長男は、救急車を呼ばないことについてホームと事前と話し合ったことは次男に説明してくれるはずです。しかし、次男から「兄貴はお袋が大切じゃないのか。お袋を殺されて悔しくないのか。それでも息子なのか」と言われると、言葉が返せなくなってしまうということもあるでしょう。
そして、非常に嫌な話をすると、ホームの過失で死亡したのなら賠償金を請求できると考える方もいます。
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ホームに入居後、チロと散歩する伊藤さん
入居時から看取り介護 通常ありえない
これは一つの例ですが、このような経緯で家族の態度が豹変してしまう場合があるのです。実際に訴えられているホームもあります。だから私たちは看取り介護については慎重になります。毎年、多くの入居者をホームで看取っていますが、それでも看取り介護を始めるにあたっては、お一人お一人慎重に、時間をかけて家族と話し合っています。
そんな背景のないまま、最初から看取り介護が必要な高齢者の入居を受け入れることは通常ならありません。伊藤さんの入居希望を受けて、私たちはさんざん悩みました。
とは言え、それは短時間のことです。伊藤さんに残された時間が少ないのはわかっていましたから。伊藤さんの申し込みがあった次の日には、施設長の私と、相談員、ユニット長(犬と暮らすユニットの介護職員のリーダー)、看護主任、管理栄養士が集まって、緊急会議を開きました。
「やるしかないですよ」職員の気持ちが一つに
私は最初から、伊藤さんを受け入れたいと思っていました。ペットと一緒に入居できる特別養護老人ホームは、さくらの里山科しかないのですから、私たちが拒否したら、伊藤さんとチロは行き場を失ってしまいます。それは、伊藤さんに残されたわずかな時間ですらチロと一緒に生きられないことを意味します。ここで伊藤さんとチロを受け入れなければ、ペットと一緒に暮らせる特養ホームを作った意味がないと私は考えていました。
ユニット長の鬼塚(仮名)も同じ気持ちでした。看取り介護を行うのに一番苦労するのはユニットの介護職員たちですが、それでもユニット長は、「ここで伊藤さんとチロを受け入れるのが自分たちの使命だ」と言ってくれました。
私が懸念していたのは、看護師の意見です。看取り介護でトラブルが発生した場合、私と一緒に矢面に立つのは看護師です。施設と一緒に看護師個人が訴えられる恐れもあります。だから、いきなり看取り介護状態の人を受け入れることに反対するだろうと思っていました。ところが看護主任は、いきなり賛成してくれたのです。
「うちのホーム以外では受け入れ不可能なら、やるしかないですよ」。看護主任の言葉で、出席者全員の気持ちが一つになりました。あの時は本当に職員の心意気をうれしく思いました。
こうして伊藤大吉さんと愛犬のチロは、さくらの里山科に入居したのです。2015年10月のことです。余命6か月の宣告を受けたのが7月のことですから、すでに余命は3か月を切っていました。前代未聞の余命3か月での入居だったのです。
本当は散歩嫌いなチロ でも伊藤さんと一緒なら
伊藤さんは入居初日から、杖(つえ)をついてチロの散歩に出かけました。それから毎日、チロの散歩は欠かしませんでした。入居後2週間もすると、末期がんによる体の衰弱が進み、長距離を歩くことは難しくなったのですが、それでも車いすをこいで(手で動かして)、散歩に行きました。もちろん介護職員が付き添っていますので、チロのフンの回収などは問題ありません。入居後6か月が過ぎた頃には、車いすをこぐことも難しくなりましたが、それでも職員に車いすを押してもらい、短い時間ですが、ホームの庭(ドッグラン)をチロと散歩していました。
そうやって伊藤さんは、さくらの里山科で暮らした10か月間、ほぼ毎日散歩に行っていたのですが、実はチロは散歩があまり好きじゃなかったんです。伊藤さんが体調が悪い時や、外出している日などは、職員がチロを散歩に連れて行っていたのですが、チロはちょっと歩くとすぐ帰りたがるんですよ。チロは、大好きな伊藤さんと一緒の散歩だから、喜んで歩いていたんですね。そしてチロとの散歩は、末期がんの伊藤さんの体力を支える貴重な運動になったと思います。
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喫茶店でもチロと一緒だった
喫茶イベントでも、ひざの上に
毎週火曜日の午後には、ホームの1階にある多目的ホール(地域交流室という名前です)で、職員が交代で店員役をつとめる喫茶店イベントを行っており、喫茶山科と名付けています。伊藤さんは、この喫茶山科に行くのを楽しみにしていました。私たち自慢の、一杯ごとに豆をひくコーヒーサーバーマシーン(週に1回の喫茶店イベントのためだけに導入したものです!)で入れたコーヒーが大好きだったんです。
ちなみに、介護の世界では、高齢者はお茶が好きで、コーヒーや紅茶は好まないという誤解があります。私たちもそれにとらわれていて、喫茶山科の開始直後はコーヒーを軽視していて、インスタントを使っていました。ある時、職員が思いつきで自分のコーヒーメーカーを自宅から持ってきてくれて、それで入れてみたんですね。そしたら、大勢のご入居者様が大喜びして下さったんです。要介護状態にある高齢者でも、ちゃんとコーヒーの味がわかるんです。おいしいコーヒーを好まれるんです。「それならばっ!」ということで、一杯ごとに豆をひく本格的なコーヒーサーバーマシーンを導入したんです。
伊藤さんも毎週、喫茶山科にいらして、おいしそうにコーヒーを飲んでいました。そのひざの上には、チロがちょこんと乗っていました。そうです。伊藤さんは、喫茶山科に行くのも必ずチロと一緒でした。伊藤さんのひざの上でくつろぐチロの姿は、喫茶山科の名物になりました。
ミカン狩り、初詣、サファリパークツアー……
伊藤さんは、外出行事にも積極的に参加していました。入居してすぐにミカン狩りに参加し、お正月には地元の神社の初詣に行きました。春には、房総半島までフェリーで行くイチゴ狩りに参加し、なんと亡くなる3週間前には、バスで2時間近くかかる富士サファリパークツアーにも参加しました。末期がん患者とは思えないほど、アクティブに活動されていたんです。
さすがに外出行事の大部分にはチロは一緒に行けませんでしたが、ミカン狩りと初詣は一緒に行きましたよ。車椅子に座ってお参りする伊藤さんのひざの上に、毛布にくるまったチロがちょこんと座っている姿は忘れられません。
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職員と将棋を楽しむ伊藤さん
医師が告げた余命をはるかに超えて
ユニット長(伊藤さんが暮らしている区画=ユニットの介護職員のリーダー)の鬼塚(仮名)も、伊藤さんの残された時間を少しでも充実させようと必死でした。伊藤さんは将棋がお好きだったので、他のユニットの将棋好きの男性入居者が伊藤さんの部屋に遊びに来ることを企画し、それは毎週の定番行事となりました。また、猫の祐介と一緒に入居した後藤昌枝さん(仮名)という動物好きの入居者にも声をかけ、後藤さんも定期的に伊藤さんの部屋に遊びに来てくれるようになりました。
鬼塚は、伊藤さんお一人のための外出行事も企画し、ペットも入れるレストランにチロと一緒に出かけました。温泉での1泊旅行まで企画していたのですが、これは残念ながら実現しませんでした。
こうして伊藤さんとチロは、一瞬の老春を駆け抜けていきました。そして、医師が告げた余命をはるかに超える10か月を生きることができたのです。しかも、病状を考えたら非常にお元気な状態で。私たちは、それはチロが起こした奇跡だと思っています。小さな命が大きな力を与えてくれたのです。
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ベッドの上でも
ベッドで最期まで寄り添ったチロ
入居して10か月目となる2016年7月。月の初めには、富士サファリパークへの旅行に参加できるほどお元気だったのですが、月の半ばに急激に体力が衰えて、寝たきりになってしまいました。
チロはベッドの上でずっと伊藤さんに寄り添っていました。伊藤さんは胸元にいるチロを見ると、うれしそうに笑っていました。そして震える手を必死に伸ばしてチロをなでると、チロもうれしそうに笑うのでした。悲しい光景ですが、同時にこれ以上ないくらい幸せな光景でもありました。そして7月末、伊藤さんは天国に旅立ちました。念願通りチロに看取(みと)られて。最期まで幸せそうなまま……。
ホームの飼い犬として今も元気に
その後、チロはホームの飼い犬になり、そのまま同じ環境で暮らしています。チロにかかる費用は今も、優しい娘さんが出して下さっています。
チロは時おり、寂しそうな顔を見せることはあります。ユニットの玄関の前に座って、じっと扉を眺めていることもあります。何となくですが、チロは伊藤さんが帰ってこないことをわかっているように感じます。伊藤さんが最期に旅立っていった扉の前で、天国にいる伊藤さんに話しかけているのかなと私たちは考えています。そのような時もありますが、チロは普段は楽しそうに過ごしています。
今年はもう14歳になり、ポメラニアンの平均寿命を超えつつあります。僧帽弁閉鎖不全症という心臓の病気ももっています。それでもチロは、とっても元気です。私たちは、チロがいつか伊藤さんに再会するその日まで、大切に面倒を見ていきます。伊藤さんの願いをかなえるために。伊藤さんとチロの老春の日々を完成させるために。
末期がんで「余命3か月」…一人暮らしの80代男性 愛犬と暮らせる場所を探して
若山三千彦
若山 三千彦(わかやま・みちひこ)
社会福祉法人「心の会」理事長、特別養護老人ホーム「さくらの里 山科」(神奈川県横須賀市)施設長
1965年、神奈川県生まれ。横浜国立大教育学部卒。筑波大学大学院修了。世界で初めてクローンマウスを実現した実弟・若山照彦を描いたノンフィクション「リアル・クローン」(2000年、小学館)で第6回小学館ノンフィクション大賞・優秀賞を受賞。学校教員を退職後、社会福祉法人「心の会」創立。2012年に設立した「さくらの里 山科」は日本で唯一、ペットの犬や猫と暮らせる特別養護老人ホームとして全国から注目されている。19年7月、ホームでの人とペットの感動のドラマを描いた「看取(みと)り犬(いぬ)・文福(ぶんぷく)の奇跡 心が温かくなる15の掌編」(東邦出版、1389円税別)を出版、大きな反響を呼んだ。